エッセイPARADIGM
幸せの方程式 PARADIGM:自由は、何でもできることじゃない
- 編集
- METANOIA
罪は単なる禁止リストなのか。太宰治『人間失格』の問いとイエスの言葉から、心、支配、責任、そして本当の自由について考えます。
何もしていないのに、自分の心にちょっと引くことがあります。
誰かを殴ったわけでもない。
盗んだわけでもない。
実際には何もしていない。
でも、誰かの言葉にイラッとして、ちょっと嫌なことが頭に浮かんだりする。
その瞬間、
「うわ……私、こんなこと考えるんだ」
って、自分で自分に引く😅
もし心に浮かんだことまで全部数えて、
「はい、今ので一罪」
みたいな仕組みだったら、私は朝から何回アウトになるんだろうと思います。
でも、ここから少しややこしい問いが出てきます。
そもそも、罪って何なんでしょう。
罪の反対って、何だろう
このことを考えていて思い出したのが、太宰治の『人間失格』でした。
作中で、大庭葉蔵と堀木が、お酒を飲みながら反対語を当てる遊びをする場面があります。
そこで葉蔵が、ふとこんな問いを出します。
「罪のアントニムは、何だろう」
アントニムは、反対語という意味です。
つまり、
罪の反対って、何だろう。
法律なのか。
善なのか。
神なのか。
救いなのか。
愛なのか。
考えてみると、意外と簡単には答えられません。
法律に触れなければ、罪ではない。
……というのも、何か違う。
法律では裁かれなくても、人を深く傷つけることはあります。
でも逆に、自分が嫌いなもの、理解できないものを何でも「罪」と呼んでしまうのも違うと思うんです。
たとえば、信号無視、姦淫、お酒、タバコ、ギャンブル、自慰。
こういうものを全部ひとまとめにして、
「はい、全部同じ罪です」
としてしまったら、むしろ大事な違いが見えなくなります。
法律によって禁止されているものがあります。
聖書が明確に扱っているものがあります。
聖書には現代の名称では直接書かれていないものもあります。
依存や支配という問題から考えたほうがいいものもあります。
そして、誰かの尊厳や生活を現実に傷つけるものがあります。
全部を一つの物差しだけで測ることはできません。
イエスは、行動の手前まで見る
ただ、ここでイエスさんの言葉を読むと、話は少し厳しくなります。
マタイの福音書5章27〜28節で、イエスさんは姦淫という外側の行為だけではなく、欲望をもって相手を見るという、心の方向にまで話を進めます。
マルコの福音書7章も興味深いです。
もともとは、弟子たちが洗っていない手で食事をしていることから始まった論争でした。
何が人を「汚す」のか。
外側から入ってくるものなのか。
そこでイエスさんは、視線を人間の内側へ移していきます。
悪い考え、欲望、ねたみ、高慢。
人を傷つけるものは、外側のルールだけを整えていれば消えるわけではない。
心の中から出てくるものがある。
つまりイエスさんは、
「実際にやったか、やっていないか」
だけを見て終わらないんですよね。
その行動は、どこから出てきたのか。
その欲望は、自分をどこへ連れていこうとしているのか。
相手を一人の人として愛する方向なのか。
それとも、自分や誰かを物のように扱う方向なのか。
そこまで見ている。
これは、けっこう逃げられない話です。
でも、頭の中を24時間監視する話ではない
ただし、ここはすごく大切だと思っています。
頭に一瞬浮かんだ考えまで全部、
「罪です」
「また罪です」
「はい、今ので三つ目です」
と数え続ける話ではないと思うんです。
人間には、自分が望んでいない考えが勝手に浮かぶこともあります。
嫌な記憶が突然戻ってくることもある。
怒っている時に、言うつもりもない言葉が頭をよぎることだってあります。
だから信仰を、自分の頭の中を24時間監視して、自分を裁き続ける装置にはしたくありません。
イエスさんが心を見るということは、
「お前の中から悪いものを一個残らず見つけてやる」
ということだけではないはずです。
もっと深いところまで見られるということは、
自分でもうまく説明できない痛みも、
恐れも、
欲望も、
それでも愛したいと思っていることも、
隠す前から知られているということでもあります。
心まで見られる。
それは怖い。
でも、心まで知っている方の前では、完璧なふりをしてから近づかなくてもいい。
私は、そこにも福音があると思っています。
「やりたいことができる」は、本当に自由なのか
そして今回、もう一つ大きく引っかかったのが、ヨハネの福音書8章34〜36節です。
そこでイエスさんは、罪と「奴隷」という言葉を結びつけます。
罪を行う者が、罪の奴隷になっていく。
そして御子が自由にするなら、本当に自由になる。
ここを読んでいると、
罪って単に、
「禁止されていることをやりました」
というだけの話ではないんじゃないかと思えてきます。
人を支配していく。
そういう力を持っている。
やりたいから、やる。
一見すると、それは自由です。
好きなものを飲む。
好きなことをする。
誰にも止められない。
でも、
やめようと思ってもやめられない。
これが無いと機嫌を保てない。
これが無いと自分でいられない。
誰かを傷つけていると分かっていても手放せない。
そこまで行った時、
それを本当に「自由」と呼べるのでしょうか。
お酒でも、タバコでも、ギャンブルでも、性でも。
仕事でも、お金でも、承認欲求でも。
もちろん、これらを全部まとめて「同じ罪」と言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
物そのものを見て、
「セーフ」
「アウト」
と判定するだけでは見えないことがある。
だから私は、
「これは何罪ですか?」の前に、「私はこれに支配されていないだろうか」と問うことも大切なんじゃないか
と思うんです。
「支配されていない」だけでも終わらない
ただ、ここにも境界があります。
「自分は支配されていないから何をしてもいい」
という話にはなりません。
法律違反には、法律上の責任があります。
誰かを傷つけたなら、その責任も残ります。
聖書が明確に扱っていることを、
「私は依存していないから大丈夫」
と消すこともできません。
逆に、聖書が直接名指ししていないものを、人間の側で勝手に神の禁止事項へ追加していくことも違うと思います。
ここは、分けて考えなければいけない。
罪を何でも曖昧にするのも違う。
何でも罪にするのも違う。
私自身、自由だと思って選んでいたことに、逆に振り回されていたこともありました。
だから今になって思うんです。
あれもこれも、やらなくても、人って普通に楽しく生きられるんですよね。
昔は、
「できることが自由」
だと思っていました。
好きなことができる。
誰にも止められない。
選択肢が多い。
それが自由だと思っていた。
でも今は、少し違います。
やらなくても平気。
無くても笑える。
選ばなくても、自分の人生が貧しくならない。
これも、すごく大きな自由だと思うんです。
そして、もう一歩あります。
自由とは、ただ何かを我慢できることでもない。
何かに支配されずに、自分や誰かを大切にするほうを選べること。
愛するほうへ向きを変えられること。
そこまで含めて、自由なんじゃないでしょうか。
心まで見たうえで、近づいてくる
もし話がここで、
「人間は行動だけじゃなく、心の中まで汚れている」
で終わったら。
太宰治の言葉を借りるなら、私たちは全員に『人間失格』という札を貼って終わることになります。
でも、福音はそこで終わりません。
マルコの福音書2章17節で、イエスさんは罪人を招くために来たと語っています。
これが私はすごく大切だと思うんです。
心の奥まで見る方が、
心の奥まで見たうえで、近づいてくる。
十字架は、罪を「どうでもいい」とした出来事ではありません。
傷つけることも。
裏切ることも。
人を物のように扱うことも。
自分自身を壊していくことも。
何でも、
「愛があるから大丈夫」
にしたわけではない。
罪を本気で扱いながら、それでも人を捨てなかった。
そして復活は、
「あなたは過去にこうだった。だから、もう終わり」
ではなく、
そこから新しく生きる道がまだ残されていることを示しています。
だから、悔い改めは自分を嫌い続けることではないと、私は思っています。
向きを変えることです。
支配されていた方向から、
愛のほうへ戻っていくこと。
「これは罪か」の前に置いてみたい問い
「これって罪なんだろうか」
そう思うものがある時、もちろん聖書を読むことは大切です。
法律や現実の責任を確認する必要がある場合もあります。
でも、禁止リストを眺めるだけでは見えないこともある。
そんな時、私はいくつかの問いを自分の前に置いてみたいと思います。
これは、私を自由にしているだろうか。
私は、これを「やらない」という選択肢も持っているだろうか。
誰かの尊厳や、自分の命を安く扱っていないだろうか。
そして、
私は今、愛から遠ざかっていないだろうか。
もし一人では抜けられないものに支配されているなら、助けを借りてもいい。
信仰は、一人で全部耐え抜くためのものではありません。
人に助けてもらうことも。
治療につながることも。
離れなければならない場所から離れることも。
自由へ戻るための選択になることがあります。
何でもできることだけが、自由ではない。
やらなくても、幸せでいられること。
そして、
支配されずに、愛を選べること。
それもまた、私が今考えている「自由」です。