PARADIGM / 愛と幸せの方程式
幸せの方程式 PARADIGM:何も積めない命にも、愛は届く
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- METANOIA
病気で何もできない夜、成果で命を測る言葉は届かなくなります。ローマ人への手紙5章8節と十字架・復活から、何も積めない命にも先に届く愛を考えます。
身体が、私の物差しを止めた
しばらくラジオを休んでいました。
風邪が落ち着いたと思ったら、今度は扁桃炎。胃を全摘してから、体調を崩すことは以前より少し怖くなりました。食べる量も、回復の速さも、昔と同じではありません。
元気な日は、「今日は何ができたか」で自分を測れます。
でも、熱で横になっている日は、その物差しが役に立たなくなる。
何も進められない。誰の役にも立てない。立派な祈りさえ出てこない。そんな夜に、「もっと前向きに」「努力すれば報われる」と言われても、言葉が遠く感じることがあります。
良い言葉が、沈黙する場所
良い教えには、届かない深さがあります。
命の火が消えようとしている人の前で。まだ言葉も知らない赤ちゃんが、病の中にいる時に。「善い行いを積めば大丈夫」とは、言えません。
そこで、道徳も、自己啓発も、きれいな正論も、いったん声を失います。
それは、良い言葉が悪いからではありません。
人間の努力では越えられない場所が、確かにあるからです。
積み上げたものを、最後まで握れるのか
豊臣秀吉の辞世として知られる「露と落ち、露と消えにし我が身かな。浪速のことは夢のまた夢」という言葉を読むと、人はどれほど大きなものを積み上げても、最後には手を開かなければならないのだと思わされます。
実績。お金。評価。善行。知識。愛された記憶。
私たちは、何かを持って最後の場所へ立ちたい。
「これだけ頑張りました」と証明したい。
けれど、死の前では、その証明さえ朝露のように消えていく。
では、最初から何も積むことのできなかった命は、どうなるのでしょう。
まだ何も返せない時に、愛は来た
聖書には、こうあります。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
ローマ人への手紙5章8節。
「まだ」という言葉に、私は救われます。
正しくなってからではない。役に立ってからでもない。何かを返せるようになってからでもない。
まだ何も整っていない場所へ、愛の方から来た。
十字架は、遠くから「頑張れ」と言う愛ではありません。痛みと死の中へ降りてきて、そこに共に立つ愛です。
そして復活は、死や病や喪失が、最後の言葉ではないという宣言です。
最後の言葉は、死ではなく、愛です。
物差しそのものが、ひっくり返る
ここで、PARADIGMが変わります。
「価値があるから愛される」から、愛されているから価値があるへ。
「何かを積まなければ」から、「受け取っていい」へ。
「弱さを隠して証明しなければ」から、「この弱いまま差し出していい」へ。
メタノイアとは、ただ反省して自分を責め続けることではなく、命を見る向きが変わることなのだと思います。
何もできなかった一日は、無価値な一日ではありません。
ただ息をしているだけで精一杯の命も、愛の外には置かれていません。
今日の小さな実践
今夜、眠る前に。
「今日は何を積めたかな」と数える代わりに、こう呟いてみてください。
「何も積めなかった今日の私にも、愛は届いている。」
立派な祈りでなくてかまいません。
何もできなかった日も。食べたいものを少ししか食べられなかった日も。誰の役にも立てなかったように感じる日も。
その日のあなたを、愛は見捨てていません。
今日の祈り
主よ。
成果で自分の命を測り、何もできない自分を責めている人に、先に届いていた愛を知らせてください。
病み上がりの身体に、休む平安を与えてください。
「ちゃんとしなければ」ではなく、「すでに愛されていた」という場所へ、私たちの心を向け直してください。
何も積めない夜にも、十字架で共に苦しみ、死を越えた愛がそばにありますように。
皆様に、主の祝福と平安がありますように。