RITUAL / 愛と幸せの方程式
幸せの方程式 RITUAL:愛は、今日の命を粗末にしない
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- METANOIA
大きな愛に出会うと、私たちは感動しながら、自分の小ささを責めてしまうことがあります。『塩狩峠』とイエスさんの言葉から、自分も隣人も壊さない愛、そして日々の小さなリチュアルを考えます。
身体は、私より先に嘘をやめた
身体は、たぶん、私より正直です。
私は最近、胸膜炎で救急車に乗りました。
深く息を吸うと胸の奥が痛む。それでも最初は、「疲れているだけかもしれない」「もう少し様子を見ても大丈夫だろう」と考えていました。
人間って、「大丈夫」という言葉だけは、身体より先に覚えてしまうんですよね。
本当は、身体はもっと前から知らせていたのだと思います。
少し休んでほしい。
もう無理をしないでほしい。
そろそろ、自分の命の扱い方を見直してほしい。
でも、私は聞こえないふりをしていた。
そして身体の方が先に、嘘をつくのをやめました。
それから、無理のない範囲で歩くことを始めました。
お酒も少し控えようと思っています。
あくまで「少し」です。
大事なところなので、ここだけはラジオと同じく、念を押しておきます。
『塩狩峠』の余韻と、一本の毛抜き
そんな頃、三浦綾子さんの小説を原作とした映画『塩狩峠』を観ました。
暴走する列車の中で、一人の青年が多くの乗客を救うために、自らの身体を差し出す物語です。
観終わったあと、しばらく動けませんでした。
愛とは、何だろう。
人のために命を差し出すとは、どういうことなのだろう。
ところが、その深い余韻の直後、DVDがプレステ4から出てこなくなりました。
ボタンを押しても出てこない。
もう一度押しても出てこない。
しかも、借り物です。
愛と信仰の物語を観終えた数分後、私は毛抜きを握り、DVDの救出作戦を始めていました。
映画の中では、一人の青年が多くの命を救う。
映画の外では、私が一枚のDVDを救う。
規模はまったく違います。
いや、比べたら怒られます。
それでも、こちらも本人なりに必死でした。
人生は、こちらが用意した美しい余韻を、あまり大切にしてくれません。
けれど、毛抜きを置いたあとにも、一つの問いだけが残りました。
私の愛は、小さすぎるのだろうか
『塩狩峠』のような大きな愛を前にすると、私たちは感動すると同時に、自分を裁き始めることがあります。
あのようには生きられない。
自分には、命を差し出すほどの勇気がない。
それなら、自分の愛は偽物なのではないか。
私も、そんなことを考えました。
私たちは時々、愛の大きさを、どれだけ自分を削ったかで測ってしまうんですよね。
どれだけ我慢したか。
どれだけ傷ついたか。
どれだけ自分を後回しにしたか。
痛みが大きいほど、愛も大きいような気がしてしまう。
でも、それは本当に、イエスさんが語った愛なのでしょうか。
「自分自身のように」という尺度
イエスさんは、こう語りました。
「あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい。これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
マルコの福音書12章31節。
私たちは、まず「隣人を愛しなさい」という言葉に目を向けます。
もちろん、大切な言葉です。
でもね。
私は今回、「自分自身のように」という部分で立ち止まりました。
これは、自分だけを最優先して生きなさい、という言葉ではありません。
また、完璧に自分を愛せるようになるまで、誰も愛してはいけないという、新しい試験でもないと思います。
むしろ、この「ように」という言葉は、自分の命と隣人の命を、同じ光の下へ置く言葉なのではないでしょうか。
隣人の痛みを、どうでもよいものとして扱わない。
それと同じように、自分の痛みも、どうでもよいものとして扱わない。
相手の命に価値があるように、自分の命にも価値がある。
愛とは、自分か相手か、どちらを犠牲にするかを決める競争ではありません。
自分を壊し続けなければ、誰かを愛したことにならないわけでもありません。
神から与えられた二つの命を、ともに粗末にしない道を探すこと。
そこにも、愛はあるのだと思います。
作品の中では命を差し出し、作品の外では支えを受け取る
三浦綾子さんの人生を見ていると、もう一つの愛の形が見えてきます。
『塩狩峠』を書いていた頃から手に痛みが出るようになり、夫の三浦光世さんが綾子さんの語る言葉を書き留める、口述筆記の形へ変わっていきました。
綾子さんが語り、光世さんが書く。
一人でできないことを認め、二人でできる形へ変えていったのです。三浦綾子記念文学館も、『塩狩峠』執筆期から光世さんが代筆を始め、その後の作品では口述筆記を続けたと紹介しています。
ここには、とても大切な対照があります。
作品の中には、命を差し出す愛がある。
そして、
作品を生み続けた現実の中には、支えを受け取る愛がある。
愛は、差し出す力だけではないんですよね。
受け取ること。
頼ること。
「一人ではできません」と認めること。
それもまた、愛のために生き続ける選択です。
休むことも、病院へ行くことも、方法を変えることも、誰かに助けを求めることも、愛から離れた敗北ではありません。
今日の命を守りながら、明日も愛を手渡すための行動です。
リチュアルとは、愛に戻るための道
そこで、今回の幸せの方程式です。
RITUAL――愛は、今日の命を粗末にしない。
リチュアルというと、特別な儀式を想像するかもしれません。
でも、ここで言うリチュアルは、もっと小さなものです。
夕食を終えたら、少し歩く。
何かを飲む前に、水を一杯飲む。
疲れていることに気づいたら、なかったことにせず休む。
眠る前に、自分の身体へ「今日はどうだった」と尋ねる。
できないことを、一人で抱えずに誰かへ伝える。
そんな小さな営みを、いつもの生活の中へ置いていくことです。
習慣形成を調べた研究では、96人が食事・飲み物・運動などの行動を、同じ状況で12週間繰り返しました。行動を同じ文脈で反復するにつれて、自動的に行いやすくなる傾向が確認されています。
そして、私が特に救われたのは、一度実行できなかったからといって、習慣形成の過程全体が大きく損なわれるわけではなかったという点です。
一日できなかっただけで、すべてが無駄になるわけではない。
これ、ありがたいですよね。
リチュアルは、自分を縛る新しい法律ではありません。
守れなかった自分を責めるためのチェックリストでもありません。
道を外れたときに、もう一度、愛の方向へ戻るための道です。
愛を、今日という形にする
『塩狩峠』が描く愛は、大きく、まぶしいものです。
けれど、愛がいつも劇的な姿で現れるわけではありません。
身体の痛みを認めること。
助けてほしいと言うこと。
誰かの話を、途中で遮らずに聞くこと。
今日はもう無理だと認めて、眠ること。
大きな愛を語る前に、今日与えられている命を、愛によって扱うこと。
それもまた、愛です。
大切なのは、完璧な人になることではありません。
一度決めたことを、永遠に失敗せず守り続けることでもありません。
何度でも、愛へ戻ることです。
幸せの方程式、RITUAL。
愛とは、命を使い切ることではない。
神から与えられた今日の命を、自分のためにも、隣人のためにも、丁寧に用いること。
愛は、今日の命を粗末にしない。
今日の祈り
主よ。
誰かを愛そうとするあまり、自分の痛みを見失っている人に、休む勇気を与えてください。
一人で背負い続けている人に、助けを求める言葉を与えてください。
自分の愛は小さいと責めている人に、今日できる小さな愛を教えてください。
私たちが、自分の命も、隣人の命も、あなたから与えられた大切なものとして扱うことができますように。
完璧でなくても、何度でも愛の方向へ戻ることができますように。
皆様に、主の祝福と平安がありますように。
▶ ラジオ版はこちら:https://youtu.be/MtNfGzr5pnY