
おはようございます☀ は〜😮💨 今日はちょっと不思議な作業をしていました。
履歴書の書き方をお伝えする資料を作るために、見本として、自分の履歴書を一度書いてみたんです。
実際に応募するわけじゃないから、気楽なはずだったんですけど。
入社、異動、退職。
年月を打ち込んでいくと、ただの見本のはずなのに、やっぱりある場所で指が止まりました😨
胃がんで胃を全摘して、仕事から離れていた期間です…
サンプルとして書いてるだけなのに、そこだけリアルに固まるの、我ながら笑っちゃいました😅
書類の上では「空白期間」って呼ばれる数年間。
でも実際の私は、何もしていなかったわけじゃないと思うんです👆️
手術を受けて、食べ方を一から覚え直して、食べるたびに体調を崩す理由を探して、眠れない夜を越えて、痛みの中でも暮らしを続けてきました。
いや、空白どころか、見えない予定でぎゅうぎゅうじゃん…と今なら思います😅
心理学の世界では、こういう「頑張ってるのに、頑張ってないことにされる時間」がよく話題になるみたいです。
介護や闘病、育児みたいに、誰にも数字で測ってもらえない労力のことを、見えない労働って呼んだりするそうです。
社会は、働いた期間にはちゃんと名前をつけます。
勤続年数、実績、役職、スキル。
でも、治療した時間や、壊れた心を立て直した時間、今日まで生き延びた時間には、ちょうどいい記入欄がないんですよね🤗
欄がないだけで、価値がないわけじゃない気がしています。
精神科医のヴィクトール・フランクルという方がいます。
強制収容所という、想像を絶する苦しみを生き延びた方なんですけど。
その方が伝えていたのは、意味を見失わなければ、人はどんな苦しみの時間も、ただの空白にはしないということでした。
意味があれば、それは耐えていた時間にも、積み重ねていた時間にもなる、みたいな話です。
聖書にも、似たような場面があります。
マルコの福音書六章で、弟子たちが伝道の旅から戻ってきて、イエスさんに報告をする場面があるんですけど。
人の出入りが多すぎて、ご飯を食べる暇もないくらい忙しかったみたいです。
そんな弟子たちに、イエスさんが命じたのは、新しい仕事じゃありませんでした。
『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい』(マルコの福音書 六章三十一節)
要は、休むことも、ちゃんと「すべきこと」の一つだよ、っていうことだと思うんです。
限界まで動き続けることを、頑張り屋さんとか立派とか、そういうふうには扱わなかったみたいです、イエスさんは。
もちろん、休むって言葉を、責任から逃げる言い訳にはしたくなくて…
働ける時には働くし、助けてもらったら、できる形で誰かに返したいし、学び直しが必要なら、知らないって認めて、一つずつ覚えていく。
そこは私も、これから向き合っていくところだったりします🙏
でも、治療や回復のために立ち止まった人にまで、「その間、何してたの?」って責めるように聞くのは、違う気がしていて。
生きるために休んでいた。 家族を守っていた。 心が壊れないように耐えていた。 もう一度歩き出す準備をしていた…
それはね… 空白じゃないと思うんです。
もし今、自分の経歴にうまく説明できない年月がある方がいたら、それを怠けてたって決めつけないでほしいなと思います。
そして誰かの履歴に空白を見つけても、そこに勝手に「努力不足」って書き込まない人でありたいです。
人には、書類だけじゃ分からない戦いがありますから。
今回は見本として書いただけなんですけど、なんだか自分の人生をちゃんと見直すきっかけになりました。
空白に見える年月も連れて、今の自分のままで、一歩ずつ進んでいけたらいいですよね。
今日は、自分の人生から消していた時間に、ちゃんと名前を返してあげたい気分です。
あの時間も、私はちゃんと生きていました。
再出発しようとしている方に、必要な理解と良い出会いがありますように。
休む必要のある方が、罪悪感じゃなく、ちゃんと必要な休息を受け取れますように。
そして私たちが、人の経歴より先に、その人のいのちを見られますように。
それでは皆様、今日も良い一日をお過ごしください🤗
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照: マルコの福音書 6章31節
翻訳: 新改訳2017