Message朝のメッセージ

生まれ変わる、そのあと

参照:コリント人への手紙 第二5章17節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

人は本当に変われるのか。人生が大きく変わった実例と聖書の「新しく生まれる」という言葉から、御言葉に自分を重ね、その都度メタノイアする歩みを考えます。

光が差す礼拝堂で壊れた鎖を手放して一歩を踏み出すピンク髪のはらぺこ僧侶と、コリント人への手紙 第二5章17節の御言葉が描かれた見出し画像

おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。

週末はまた台風来て暴れ回りそうです💦

そして暴れると言えば… 私も、昔、けっこう暴れまわってたと思います😅

お友達の中にいるリアル知人はなんとなく…知ってたりするんですが、

今の私しか知らない人が聞いたら、 「またまた〜」なのか「知ってたw」なのか、 どっちか分からないですけど笑

まあ、それで結構です😂

それでも今の自分を見ると、 自分で言うのもあれですけども、 ずいぶん変わったなとは思うんです🤗

もちろん、歳を重ねて(まだ20歳くらいの設定ですが❤️)昔できたことができなくなっただけかもしれない。

体力がなくなっただけかもしれないし、できる環境がなくなったのかもしれないし…

周りが相手にしてくれなくなっただけかもしれません。

それを全部「人間的に成長しました」で済ませるのは… ちょっと違う気がしませんか?

「できなくなったこと」と「できるけど、もう選ばない」と決めたことって、 たぶん別物なんですよね👆️

でも、だから人間の中身は一生変わらないのかというと、 私は、そうは思わないんです。

教会にいると… 元暴力団員だった人、刑務所に入っていた人、薬物やアルコールの問題を抱えていた人が、 聖書を読み、イエスさんを信じ、そして人生が変わったという証しを聞くことがあります。

もちろん全部本当なのかは… 私にはわかりません😌

たとえば、進藤龍也さんという牧師さんは、 もともと暴力団に所属し、覚醒剤の問題も抱えていました。

三度目の服役中に、差し入れられたキリスト教の聖書を読んだそうです📔

そして出所後、暴力団を離れ、洗礼を受けて神学校で学び…

今度は受刑者や、刑務所を出た人たちの再出発を支える側に回ったそうです😳

もちろん、聖書を読んだ瞬間に、 過去の出来事が全部消えたわけじゃないと思います。

身体も性格も記憶も、突然、別人のものに入れ替わったわけではない…ですよね😣

でも… 進む方向が変わった。

人から奪う方から、人の再出発を支える方へ。

自分だけを守る方から… 同じように苦しむ人へ手を伸ばす方へ。

教会では、イエスさんを信じて人生の向きが変わることを「回心」と呼ぶことがあります。

自分の間違いに気づき、神さまの方へ考え方や生き方を向け直すことを「悔い改め」と呼びます。

そして聖書は、イエスさんを信じる人に起きることを「新しく生まれる」とも表現しています。

聖書によると、ある夜、ニコデモという人がイエスさんのもとを訪ねました。

ニコデモは、パリサイ人であり、ユダヤ人の議員でもあった人です。

聖書も律法もよく知っていた、当時の宗教的な指導者でした。

そのニコデモに、イエスさんはこう語ったそうです。

『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』(ヨハネ3:3)

イエスさんがここで語ったのは、表面だけを少し行儀よくすることではありません。

知識を増やしたり、悪い癖を自分の力だけで直したりして、自分を新品の人間へ作り替えるという話でもない。

この後イエスさんは、水と御霊によって生まれることをニコデモに語っています。

新しく生まれることは、人間の根性だけで起こす変化ではなく、神さまから与えられる新しい命なんですよね。

そして、「イエスさんを信じること」と「神から生まれること」の関係は、ヨハネの手紙にもはっきり書かれています。

『イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです』(ヨハネの手紙第一5:1)

パウロという人も、もともとはイエスさんを信じる人々を迫害する側にいました。

でも、後にイエスさんを伝える者となったパウロは、キリストのうちにある人をこう表現しています。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』(コリント人への手紙第二5:17)

イエスさんを信じるというのは、今までの自分に宗教的な知識をちょっと付け足すことじゃないんですよね👆️

人生の中心が、自分だけではなくなる。

誰より強くなることより、イエスさんの愛から離れないことを選び始める。

自分を守るためなら誰かを傷つけてもいい…という生き方から、

自分が傷つくことを恐れながらも、それでも愛のある方へ歩こうとし始める。

「新しく生まれる」という言葉には、それくらい大きな変化が含まれているのだと思います🤗

でも…… 新しく生まれたからって、次の日から何も間違えない人になるわけじゃありません。

怒ることもあるし、言い訳することもあります。

もう手放したと思っていたものを、また握りしめてしまう日もある。

だから私は、聖書を読むたびに、自分の行動をそこへ重ねてみるんです。

私が聖書を読む一番の理由はこれかも知れません🥰🙏

イエスさんなら… 目の前のこの人をどう扱っただろう。

今の言葉は、相手を生かす言葉だっただろうか❓️

これは愛なのか❓️ それとも…負けたくないという意地なのか。

守るためなの? 支配するためなの?

聖書を読むと、自分では正しいと思っていたことが、 「あれ…ちょっと違ったかも」って見えてくることがあります😅

そのたびに、向きを直す。

ここでいう「メタノイア」は、新約聖書で「悔い改め」と訳される言葉です。

私のメッセージ見てる人は…知ってるよね?😣

ただ後悔して落ち込むのではなく、考え方や心の向きを改め、神さまの方へ…つまり愛の方へ生きる方向を変えていく。

昨日メタノイアしたから、今日はもう必要ありません。

……とは、なかなかならないんですよね😂

一度イエスさんを信じたら、あとは自動的に、正しい方向へ進み続けるわけじゃない。

聖書に照らされながら… 言葉を一つ直す。態度を一つ改める。傷つけたなら認める。謝るべきなら謝る。

助けが必要なら、一人で抱え込まずに助けを求めるんです😱

そしてまた、愛のある方へ向き直る…🙂‍↔️

私にとってメタノイアは、人生で一度だけ行う大きなイベントというよりも、 新しく生まれた命へ、その都度、立ち返っていくことなんです🤗

教会も、変わり終わった人たちだけが集まる場所ではないと思います。

少なくとも私は、聖書に照らされて「あ、ここは違っていた」と気づき…

何度でもイエスさんの方へ向き直る人たちが集まる場所として、教会を受け取りたいんです。

聖書には、こう書かれています📔

『この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい』(ローマ人への手紙12:2)

「自分を変えなさい」ではなく「変えていただきなさい」と書かれているところ。

私は、ここが結構大事な気がしていて。

自分の力だけで、完璧な人間を作り上げるんじゃない。

聖書を読んで、イエスさんの愛に触れて、自分が何を握りしめていたのかに気づきながら…少しずつ、変えていく。

「男が謝ったら負けだ」とか「弱いところを見せちゃいけない‼️」「助けを求めるくらいなら、一人で耐える」

そんな言葉を、ずっと握りしめてきた人もいると思うんです。

実際そうやって頑張ってきた事…それはホントにすごい🥰

それは本人が望んで握ったというより、体験から感じ…

そして、そうしなければ生きていけないと、周りから教えられてきたものかもしれません。

でも、「ごめんなさい」「怖いです」「一人では無理です。助けてください」

そう言えた瞬間…もう昨日までとは違う方向へ歩き始めている気がします。

強さを失ったんじゃない。

人を傷つけてきた古い武器を置いたんです。

これも、大きなメタノイアなんじゃないかなと思います。

ただ、聖書と自分を重ねるというのは、すべての行動に点数をつけて、自分を監視し続けることではないんですよね👆️

間違えるたびに、「私は信仰が足りない」と自分を責め続けることでもない。

イエスさんは、完成した人だけを捜しに来たわけではありません。

イエスさん自身が、こう言われています。

『人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです』(ルカ19:10)って。

自分の間違いに気づいた時、「だから私はだめなんだ」と自分を見捨てるんじゃなくて、

捜しに来てくれたイエスさんの方へ向き直る。

悔い改めは、自分を罰し続けることではなく、もう一度、愛のある方へ帰ること💕

祈りとともに、医療や専門的な支援、仲間の助けを受ける必要があることも、普通にあります。

助けを受け取ることも、握りしめていた手を開く大切な一歩なんじゃないかなと思います。

人は変われます。

でもそれは…過去の自分が最初から存在しなかったことになる、という意味ではありません。

新しく生まれることは、イエスさんから始まる大きな出来事です。

でも、新しく生まれた人が、その新しい命に沿って歩くことは、一日で完成するものではありません。

イエスさんを信じて、新しく生まれる。

それでも間違えるたびに、また聖書へ戻る。

昨日より一つだけでも、愛のある方を選び直してみる。

その都度、メタノイアする。

生まれ変わるというのは、一瞬で完璧な人になることじゃなくて、

イエスさんからいただいた新しい命で、何度でも愛のある方へ向き直りながら歩くことなのだと思います😊

今日、何かを強く握りしめていることに気づいたら、全部を一度に手放さなくても大丈夫です。

まず一つ、聖書の言葉と重ねてみる。

違っていたなら、静かに向きを直す。

その小さな一歩の中にも、新しく生まれた命は、ちゃんと動いているのだと思います。

今日も皆様に、 主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照:コリント人への手紙 第二5章17節
翻訳:新改訳2017