
【その人を、罪の名前で呼ばない】
おはようございます☀ はらぺこ僧侶です🤗
昨日は、浜田麻里さんの新曲『Rhapsodiaris』のレビューを書いていたんですが…
いやぁ、めちゃくちゃ体力を使いました😂💦
「新曲、めっちゃカッコいいです‼️」
これだけなら、たぶん3秒で終わるんです😂
実際、めっちゃカッコいいですし⚡️ 歌も演奏も、とんでもなく凄いですし🤩🎉
でも、歌詞を解説しようとすると、そうはいかないんですよね😣
この言葉は、どういう意味なんだろう🤔
この一行だけならこう読めるけど、次の歌詞まで見ると少し意味が変わるんじゃないか。
曲の前半と後半で、同じ言葉の響きが変わっていないか。
そもそも『Rhapsodiaris』って、いったい何なんだ😂
何度も曲を聴いて、歌詞を行ったり来たりして、書いては戻って、また考えて…
聴いてる私がこれだけ疲れるなら、作った側の体力どうなってんのよ😂💦
そんなことを思いながら、なんとか書き終えました🙌✨
そして、書き終わったあとに、ふと思ったんです🤔
私は歌詞のたった一行を理解するために、あれだけ前後の文脈を見たんですよね。
一つの言葉だけを切り取って、
「はい、この歌はこういう意味です‼️」
とは決めなかった。
それなのに、人のことになると…
たった一度の言葉。
一度の失敗。
一つの嫌な態度。
それだけを見て、
「あの人は、そういう人だから」
って、全部分かったような気になってしまうことがあります😣💦
嘘をついた人を、
「あの人は嘘つき」
失敗した人を、
「あの人は使えない」
誰かを傷つけた人を、
「あの人は最低な人」
最初は、その人の「したこと」について話していたはずなのに…
気づいたら、その行動が、その人の名前になってるんですよね😟
でも、自分が失敗したときはどうでしょう。
「いや、あのときは余裕がなくて…」
「ちゃんと事情があって…」
「本当の私は、そんなんじゃなくて…」
めちゃくちゃ前後の文脈を説明したくなります😂
自分の人生には文脈がある。
でも、嫌いな人の人生には文脈がない。
…いやいや、それはちょっと都合がよすぎますよね😅
もちろん、事情があれば何をしても許される、という話ではありません👆️
嘘は、嘘です。
裏切りは、人を傷つけます。
暴力や搾取や差別を、
「この人にも事情があるから」
と曖昧にしてはいけない。
悪いことは、悪い。
責任を取るべきことは、きちんと責任を取らなければならないと思います。
聖書にも、愛には偽りがあってはならず、悪を憎み、善に結びつくようにと書かれています📖✨
愛するというのは、何でも笑顔で許して、
「大丈夫だよ〜🥰」
と全部飲み込むことではないんですよね。
それは愛というより、場合によっては悪に協力することにもなってしまいます😣
でも、イエスさんは同時に、こんなことを言われました。
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
マタイの福音書5章44節です📖🙏
敵なんて存在しない、とは言っていません。
傷つけられても気にするな、とも言っていない。
その人が自分に敵対しているという現実を消さないまま、それでも、その人を憎しみだけで扱わない道を、イエスさんは示されたんです😌
これ…
簡単そうに言っていますけど、めちゃくちゃ難しいですよね😣💦
だって、嫌なことをされたら嫌いになります。
傷つけられたら、相手にも同じ痛みを味わわせたくなることがあります。
「この人は悪い人なんだから、何を言ってもいい」
そう思えた方が、自分の怒りや攻撃を正当化しやすい。
でも、そこで相手を「悪そのもの」にしてしまったら…
今度は自分が、その人の尊厳を奪う側へ回ってしまうかもしれません🥺
マーティン・ルーサー・キング牧師は、イエスさんの「敵を愛しなさい」という御言葉について、悪い行いを憎みながらも、その行いをした人を愛するのだ、という趣旨のことを語っています。
そして、憎しみに憎しみを返せば、世界にある憎しみと悪を、さらに増やしてしまう。
だから、どこかで誰かが、その鎖を断ち切らなければならない、と。
もちろん、キング牧師は差別を見て見ぬふりしたわけではありません。
「みんな仲良くしましょう🥰」
と言って、不正を放置したわけでもない。
差別には、差別として抵抗した。
間違っていることには、間違っていると声を上げた。
それでも、差別する人まで、人間ではないものとして扱うことはしなかったんです。
悪には抵抗する。
でも、悪を行う人と同じ憎しみには支配されない。
それが、キング牧師の非暴力だったのだと思います😌🙏
心理学には「道徳的本質主義」と呼ばれる考え方があります🤔
簡単に言うと、その人が何か悪いことをしたときに、
「この人は悪いことをした」
ではなく、
「この人の中には、変わらない悪い本質がある」
と考えてしまうことです。
実際に、犯罪行為をその人の「変わらない本質」のように説明されると、そうでない場合よりも、その人へ厳しい罰を求めやすくなることを示した研究もあります。
つまり私たちは、一つの行動から、
「この人は、もともとこういう人なんだ」
と決めてしまうと、その人が変わる可能性まで見えにくくなってしまうんです😟
でも、昨日お話ししたように、聖書は、人が新しく生まれることを語っています📖✨
間違った人が、向きを変えること。
人を傷つけてきた人が、自分の罪を認めて謝ること。
奪う側にいた人が、今度は誰かを支える側へ回ること。
聖書が本当に、人は悔い改めて変わることができると語っているなら…
私たちも、誰かを過去の一場面だけに閉じ込めてはいけないんじゃないでしょうか😌
だからといって、すぐに信用を戻す必要はありません。
ここ、大事です👆️‼️
人を憎まないことは、何度でも傷つけられなさいという意味ではありません。
赦すことは、被害をなかったことにすることでもない。
危険な人から離れること。
連絡を断つこと。
専門家や警察に助けを求めること。
責任をきちんと問うこと。
それらと、人の尊厳を奪わないことは両立します🫶
「あなたがしたことは間違っています」
そう言っていい。
でも、
「だから、あなたは存在する価値のない人です」
そこまでは言わない。
愛とは、悪を悪ではないことにすることではありません。
その人を、犯した罪だけで終わらせないことです😌✨
今日、誰かのことを話すとき…
呼び方を一つだけ変えてみてもいいかもしれません👆️
「あの人は嘘つきだ」
ではなく、
「あの人は、あのとき嘘をついた」
「あの人は最低だ」
ではなく、
「あの行為によって、私は深く傷ついた」
人格と行為を分けても、責任が軽くなるわけではありません。
むしろ、何が間違っていて、何を変えなければならないのかが、はっきりします。
そしてこれは、誰かに対してだけではなく、自分自身にも同じことが言えると思います🥺
私は失敗した。
でも、私は失敗そのものではない。
私は人を傷つけた。
だから謝り、できる限り償わなければならない。
でも、私の人生は、その罪だけで終わる必要はない。
悔い改めて、向きを変えることができる。
また、愛のある方へ歩き直すことができるんです😌🫶
歌詞の一行にも、前後の文脈があります。
私たちの人生にも、まだ読まれていない続きがあります📖✨
今日、誰かを一つの失敗だけで決めつけませんように。
間違っていることは、ちゃんと間違っていると言いながら…
その人まで、全部悪いものにしてしまいませんように。
そして、自分の失敗についても、
「もう私はダメだ」
と、その先まで閉じてしまいませんように。
必要な距離はちゃんと取りながら、言うべきことはちゃんと言いながら…
それでも、憎しみに心を持っていかれませんように。
今日もまた、愛のある方へ戻っていけますように😌🙏
今日も皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照:マタイの福音書 5章44節
翻訳:新改訳2017