朝のメッセージ

途中は、失敗でも終点でもない

/ 参照: マルコの福音書 8章25節

一度で完成しなくても、ぼんやりした場所にもう一度手を伸ばせる。途中にいる人を切り捨てなかったイエスさんの姿から考えます。

途中は失敗でも終点でもないというタイトルと、スマートフォンでサイトを確認するピンク髪の女性、マルコの福音書8章25節を描いた見出し画像

おはようございます☀️

昨日、作ってるサイトをスマホで開いてみたら、レイアウトが見事に崩れてて…😨

パソコンではちゃんと見えてたんですよね。

むしろもう完成した顔してたのに…

スマホに持ち替えた瞬間、完成品から「要修正」に降格しました😅

画面の幅、正直すぎるんですよね…。

作ってる側の環境じゃ気づかなかった問題が、実際に使う人の画面だと、はっきり見えてしまう🤔

ああ、まだ途中だったんだな、って思いました。

何かがうまくいかなかった時って、つい全部を失敗扱いしたくなるんですよね。

ここまで作ったのに。 ちゃんと考えたのに… 一度は動いてたのに〜って💦

でもね… 崩れてる場所が見つかったってことは、次に直す場所が分かったってことでもあるんですよね。

この感覚、聖書にも似た場面があって。

マルコの福音書8章に、目の見えない人をイエスさんが癒やす話があります。

イエスさんはその人の手を取って村の外へ連れ出し、目に手を当てたあと、「何か見えますか」と尋ねるんです。

すると、その人は見えるようにはなったんですけど、

「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」

って答えるんですよね😳

見えた。 でも…まだはっきりとは見えていない。

わたしはここが好きです。

本文には、この人の心の中まで書かれているわけではありません。

でも少なくとも彼は、見えたふりをせず、今の見え方をそのまま答えたんですよね。

全部見えています、とは言わなかった。

まだぼんやりしていることを、そのまま伝えた。

そしてイエスさんは、そこで終わりにはしませんでした。

もう一度、その目に手を当てるんです。

すると…?

「すべてのものがはっきり見えるようになった」(マルコの福音書8章25節)

と書かれています。

一度で完成しないことがある。 変化が始まってても、まだぼんやりしてることがある。

そして、ぼんやりしてるなら、もう一度手を入れていい。

そう読める場面だな〜と、思いました。

もちろんこの箇所を、「祈れば病気は必ず治る」という保証にはできません。

治らない人や、回復に時間がかかる人に、「信仰が足りない」と背負わせる読み方は違うと思います。

わたしがここで受け取りたいのは、途中にいる人を、途中のまま切り捨てなかったイエスさんの姿なんですよね。

まだ見えにくいなら、何が見えてるのかを聞く。 十分じゃないなら、もう一度触れる。 できてないことを責めるより、必要なところへ手を伸ばす。

それってサイトの修正だけじゃなくて、人との関係とか、自分の生活にも言えるのかもしれません。

一度謝ったのに、まだ関係がぎこちない。 一度休んだのに、まだ疲れが残ってる。 一度決めたのに、また迷ってしまった。

だから全部無駄だった? とは限らないんですよね🤗

変化の途中で、今まで見えなかった問題が見えてきただけかもしれないし…

ただ、「途中だから仕方ない」を、放置するための言い訳にはしたくなくて。

途中は、責める場所じゃない。

でも、直せる場所が見えたなら、見なかったことにしなくてもいい。

見えた不具合は、直す。 うまく伝わらなかった言葉は、言い直す。 傷つけたことに気づいたら、もう一度向き合う。 自分を責め続けるんじゃなく… 次に必要な一手を考える。

今日は、全部を完成させなくても大丈夫。

ただ、ぼんやりしている場所に、もう一度だけ手を伸ばしてみる。

途中は、失敗でも終点でもない。

もう一度、愛の方へ手を動かせる場所です。

今日も、見えなかったものに気づける素直さと、気づいた場所を直していく力が与えられますように。

皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照: マルコの福音書 8章25節
翻訳: 新改訳2017