
おはようございます☀️
昨日、作ってるサイトをスマホで開いてみたら、レイアウトが見事に崩れてて…😨
パソコンではちゃんと見えてたんですよね。
むしろもう完成した顔してたのに…
スマホに持ち替えた瞬間、完成品から「要修正」に降格しました😅
画面の幅、正直すぎるんですよね…。
作ってる側の環境じゃ気づかなかった問題が、実際に使う人の画面だと、はっきり見えてしまう🤔
ああ、まだ途中だったんだな、って思いました。
何かがうまくいかなかった時って、つい全部を失敗扱いしたくなるんですよね。
ここまで作ったのに。 ちゃんと考えたのに… 一度は動いてたのに〜って💦
でもね… 崩れてる場所が見つかったってことは、次に直す場所が分かったってことでもあるんですよね。
この感覚、聖書にも似た場面があって。
マルコの福音書8章に、目の見えない人をイエスさんが癒やす話があります。
イエスさんはその人の手を取って村の外へ連れ出し、目に手を当てたあと、「何か見えますか」と尋ねるんです。
すると、その人は見えるようにはなったんですけど、
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」
って答えるんですよね😳
見えた。 でも…まだはっきりとは見えていない。
わたしはここが好きです。
本文には、この人の心の中まで書かれているわけではありません。
でも少なくとも彼は、見えたふりをせず、今の見え方をそのまま答えたんですよね。
全部見えています、とは言わなかった。
まだぼんやりしていることを、そのまま伝えた。
そしてイエスさんは、そこで終わりにはしませんでした。
もう一度、その目に手を当てるんです。
すると…?
「すべてのものがはっきり見えるようになった」(マルコの福音書8章25節)
と書かれています。
一度で完成しないことがある。 変化が始まってても、まだぼんやりしてることがある。
そして、ぼんやりしてるなら、もう一度手を入れていい。
そう読める場面だな〜と、思いました。
もちろんこの箇所を、「祈れば病気は必ず治る」という保証にはできません。
治らない人や、回復に時間がかかる人に、「信仰が足りない」と背負わせる読み方は違うと思います。
わたしがここで受け取りたいのは、途中にいる人を、途中のまま切り捨てなかったイエスさんの姿なんですよね。
まだ見えにくいなら、何が見えてるのかを聞く。 十分じゃないなら、もう一度触れる。 できてないことを責めるより、必要なところへ手を伸ばす。
それってサイトの修正だけじゃなくて、人との関係とか、自分の生活にも言えるのかもしれません。
一度謝ったのに、まだ関係がぎこちない。 一度休んだのに、まだ疲れが残ってる。 一度決めたのに、また迷ってしまった。
だから全部無駄だった? とは限らないんですよね🤗
変化の途中で、今まで見えなかった問題が見えてきただけかもしれないし…
ただ、「途中だから仕方ない」を、放置するための言い訳にはしたくなくて。
途中は、責める場所じゃない。
でも、直せる場所が見えたなら、見なかったことにしなくてもいい。
見えた不具合は、直す。 うまく伝わらなかった言葉は、言い直す。 傷つけたことに気づいたら、もう一度向き合う。 自分を責め続けるんじゃなく… 次に必要な一手を考える。
今日は、全部を完成させなくても大丈夫。
ただ、ぼんやりしている場所に、もう一度だけ手を伸ばしてみる。
途中は、失敗でも終点でもない。
もう一度、愛の方へ手を動かせる場所です。
今日も、見えなかったものに気づける素直さと、気づいた場所を直していく力が与えられますように。
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照: マルコの福音書 8章25節
翻訳: 新改訳2017