朝のメッセージ

愛って、誰にも気づかれないところでバレるんですよね。

/ 参照: ヨハネの福音書 13章14節

愛って、誰にも気づかれないところでバレるんですよね。

台所のシンクのそばに立つ女性と、ヨハネの福音書13章14節を描いたメッセージ画像

愛って、誰にも気づかれないところでバレるんですよね。

今朝、台所へ行ったら、シンクにコップが一つだけ残っていました。 たった一つ。 でもその一つを見た瞬間に分かりました。 昨日の私が、今日の私に仕事を残してる😂

「これくらい、あとで洗えばええやろ」と思った昨日の私と、「その あとで を担当するの、私やん」と思う今日の私。 同一人物なのに、ちょっと腹が立つんですよね😅

暮らしの中には、誰がやってもいいけれど、誰かがやらないと地味に困ることがたくさんあります。 空になったトイレットペーパーを替えること。 ゴミ袋を新しくすること。 散らかった椅子を元に戻すこと。 疲れて帰ってきた人に「大丈夫?」と声をかけること。

どれも写真には残らないし、誰かに褒められるようなことでもありません。 ちゃんとやってあれば、気づかれないことの方が多い。 でも私たちの生活って、そういう「誰にも気づかれなかった誰かの優しさ」に、ずいぶん支えられているんですよね。

ヨハネの福音書十三章に、イエスさんが弟子たちの足を洗う場面があります。 当時、足を洗うのは家の中でも立場の低い人がする仕事でした。 ところが、先生と呼ばれ、主と呼ばれていたイエスさんが、自分から立ち上がって弟子たちの前に身をかがめたんです😮

そしてこう言われました… 『主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません』(ヨハネ13:14)

イエスさんは、愛について立派な話をしただけじゃなかったんですよね。 誰もやりたがらない仕事を、ご自分の手で引き受けたんです。

ここで一つ、間違えたくないことがあります👆️ この御言葉は、いつも我慢している人に「もっと人のために尽くしなさい」と追い打ちをかける言葉じゃないと思うんです…🤔

家族の世話をずっと背負っている人。 職場で誰かの後始末ばかりしている人。 断れない性格につけ込まれて、もう疲れ切っている人。 そんな人にまで「イエス様のように仕えなさい」と言うなら、それは愛じゃなくて聖書を使った搾取になってしまいます。

この場面で身を低くしたのは、弱い立場の弟子たちじゃありません。 力を持ち、主と呼ばれていたイエスさんでした。 愛は、弱い人にさらに荷物を持たせることじゃなくて、力のある人が自分の手を空けて誰かの荷物を持つことなんですよね。

今日、目の前に「誰かがやらないと困ること」があったら、一つだけ拾ってみようかなと思います。 大きなことじゃなくていい。 コップを一つ洗う。 重そうな荷物を持つ。 話しかけてきた人の方を向いて、ちゃんと聞く。 忙しそうな人に「何か手伝おうか」と聞いてみる…みたいにね🤗

その数分で、誰かの一日が少しだけ軽くなるかもしれません。 そして、もう十分に人のために動いてきた人は、今日は休んでください。 何も拾わない日があってもいい。 あなたが倒れるまで頑張ることを、イエスさんは求めていないと思います。

愛は、大きな言葉より先に、誰も見ていない場所に現れる。 ということで、私はまず昨日の私が残したコップを洗ってきます😂

今日、私たちが誰かの優しさに気づけますように。 そして自分にできる範囲で、誰かの荷物を少しだけ軽くできますように。 皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏 良い一日を🤗

参照: ヨハネの福音書 13章14節
翻訳: 新改訳2017