
鍵をなくして、玄関の前でただ突っ立ってた…なんて経験、ありませんか
はらぺこ僧侶です🤗
おはようございます☀
目の前に自分の家があるのに、鍵一本ないだけで中に入れない。あの、何とも言えない情けなさ、地味にこたえますよね😅
今日の御言葉を読んでて、ふとこの感覚を思い出したんです。
『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』
ヨハネの黙示録三章二十節です。
これは、「心のドアをノックしてるイエスさん」の話として有名なんですけど、実はこれ、信仰のない人にじゃなくて、ラオディキアっていう、ちゃんと存在してた教会に向けて語られた言葉なんですよね。
つまり教会の中に、もうイエスさんがいて当然の場所に、イエスさんが外に立たされてる。これってね、普通に考えたらかなりヤバい状況だと思うんです😳
正しいことしてるつもりでも、忙しくしてても、祈っていても、気づいたら一番大事な存在を外に締め出してることって…あるのかもしれません。
でも私が一番ドラマチックだと思うのはここからです👆️
イエスさんって、鍵、持ってるはずなんですよね。全部作った人だし、蹴破ろうと思えば蹴破れるはずで。なのに…しない。
怒鳴らないし、無理やり開けない。ただ、戸口に立って、たたいてる。
なんやねん、人間の私たちの方がよっぽど連打して急かしてるやん…って、自分で書いてて笑っちゃいました😅
力を持ってるのに使わずにいてくれるって、それ、めちゃくちゃ怖いくらい強い愛だと思うんです。
信じさせることも、謝らせることも、力で押し込んだ瞬間に、それは愛じゃなくて支配になっちゃう。
そして戸が開いた後にイエスさんがすることも、説教でも尋問でもなくて、一緒にご飯を食べることなんですよね🍞
同じテーブルで、同じ時間を過ごしてるうちに、強張ってた心がゆっくりほどけていく感じ。
今日の幸せの方程式です。
心のドアは、誰かに壊してもらうものじゃなくて、愛を感じた時に、自分の内側から少しずつ開いていくもの。
今すぐ全部開けなくても大丈夫です。信じ切れなくても、まだ怖くても、少しだけ耳を澄ませてみるところからでいいと思います。
もしかすると今も、あなたを責める声じゃなくて、一緒に食卓を囲みたいっていう声が、静かに戸をたたいてるかもしれません。
その音に気づける一日になりますように。
そして私たち自身も、誰かの心の扉を鍵ごと蹴破ろうとせず、ノックして待てる人でありたいなと思います🙏
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照: ヨハネの黙示録 3章20節
翻訳: 口語訳