Message朝のメッセージ

【ここにいて、一緒に目を覚ましていて】

参照:マタイの福音書26章38-39節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

苦しい時に「ここにいて」と願ったイエスの言葉から、自分の痛みを認め、誰かの隣で目を覚ましている愛を考えます。

月明かりの下で悲しみながら祈るピンク髪の女性と、マタイの福音書26章38節の御言葉を描いた見出し画像

おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。

沖縄…台風です😖

まずは皆様に被害がありませんよう、お祈りいたします🙏

さて…

今日は私の話からじゃなくて、まずイエスさんの言葉を聞いてもらえますか…❓️📖

『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい』 マタイの福音書26章38節

この御言葉、何度も読んできたはずなのに、今日はなんだか、今までとは違う声で聞こえてきた気がして…

この言葉が語られたのは、イエスさんが十字架につけられる前の夜です。

このあと自分が捕らえられ、苦しめられ、殺されることを知りながら、ゲツセマネで悲しみもだえていた時。

そんな時、イエスさんは「大丈夫です」って言わなかったんですよね。

「心配しないでください」とも言わなかったし、

「自分は神の子だから平気です」

って、強がることもしなかった。

苦しい。 悲しい。 一人でいたくない…

ここにいてほしい。

イエスさんは弟子たちに、自分の深い悲しみを隠さず、そのまま見せたんです。

正直、ここを読むたびに胸がぎゅっとなるんですよね😳

私たちって、苦しい時ほど、

「相手も大変だから」 「私が我慢すればいいから」

って、自分の声を小さくしちゃうことがあるじゃないですか❓️

本当は苦しいのに…😭

本当はもう、一人じゃ抱えきれないのに。

それでも笑って、

「大丈夫」 って言ってしまう…

でも、大丈夫じゃないものは、大丈夫じゃないんですよね。

苦しいものは苦しいし、悲しいものは悲しい。

私にも心があって、痛みがあって、

「これ以上は無理」

っていう限界がある。

それを口にすることって、愛を諦めることじゃないんじゃないかなって思うんです。

イエスさんの、

「ここにいて」 「一緒に目を覚ましていて」

という言葉も、誰かを責めたくて言った言葉じゃない気が…します😖

ただ、この苦しみを見ていてほしい。 今だけは、そばにいてほしい…って。

そんな、とても素直で切実な願いだったんじゃないかな〜って。

でも、弟子たちは眠ってしまうんです💤

イエスさんが悲しみの中で祈っている、すぐそばで。

しかも一度じゃなく、イエスさんが戻ってきても、また戻ってきても、眠っていた。

「ここにいて」

って言ったのに、伝わらなかった😢

一番そばにいてほしい時に、分かってもらえないのって、どれくらい孤独だったんだろうって考えちゃいます😭

近くに愛してくれる人がいるはずなのに、心だけひとりぼっちになる。

そんな感覚って、あると思うんです。

苦しさを打ち明けても、

「まだ足りない」 「もっと頑張って」

ってなってしまうやり取りも、割とあると思います…

でも、もう十分頑張ってる時ってあるじゃないですか。

変わろうとしてる。 できることも探してる。

自分の悪かったところも、ちゃんと認めてる。

だからこそ、自分が傷ついたことまで、なかったことにしなくていいと思うんです。

自分の非を認めることと、 自分の痛みを認めること。

この二つは、同時に成り立っていいはずだから👆️

このあとイエスさんは少し離れて、一人、地面にひれ伏して祈るんです。

『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』 マタイの福音書26章39節

「この苦しみを取り去ってください」 って、はっきり願ったんですよね。

苦しみから逃れたいと思うのは、信仰が弱いからじゃない。

助けを求めることも、愛が足りないからじゃない。

「もう苦しい」 「これ以上は無理」 「助けてほしい」

って、言っていいんだと思うんです。

ただ、ここで一つだけ、大事にしたいことがあって。

イエスさんは、このあとこう続けるんですよね。

『しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください』 マタイの福音書26章39節 結構、重たい言葉だと思うんです。

でもこれって、

「だから黙って、全部我慢しなさい」 という命令じゃないと思っていて。

「御心だから我慢しなさい」 「信仰があるなら離れてはいけない」 「愛しているなら、何度傷つけられても耐えなさい」

そんなふうに、苦しんでいる人を縛るために使う言葉じゃないはずなんです🤗

イエスさんは、悲しみを隠さなかった。

地にひれ伏した。 苦しみが過ぎ去ることを願った。

そのうえで、父に委ねたんです👆️

いきなり、 「御心のままに」

って言ったわけじゃないんですよね。

その前に、

「苦しい」 「この杯を過ぎ去らせてほしい」

という、切実な願いがあった。

だから私たちも、苦しい時はまず叫んでいい。

悲しい時は泣いていい。

一人で抱えられない時は、

「ここにいて」 って言っていいんじゃないかなって🥰

それでも誰にも分かってもらえない夜があったとしても、

イエスさんが、この孤独をちゃんと知っている方だということを、思い出したいなって思うんです🙏

「そんなことで苦しむな」

とは言わない。

「もっと耐えろ」

とも言わない。

私たちの言葉にならない悲しみを、遠くから眺めているだけの方じゃない。

ご自身も、地にひれ伏すほどの悲しみを知っている方なんですよね🫶

だから、愛するために、自分の存在まで消さなくていい。

誰かの分の責任まで抱え込んで、自分の心を壊さなくていいんだと思います。

誰かを愛することと、 自分の苦しみを「苦しい」と言うこと。

それは両立していいはずだから。

赦すことと、今すぐ同じ場所へ戻ることも、同じじゃなくていい。

相手を悪者にしないことと、

自分が傷ついたことを「傷ついた」と言うことも、ちゃんと両立するんじゃないかなって思います。

もし今、誰にも言えずに抱えていることがあったら…

今日だけは、 「ここにいて」

って、小さく口に出してみてもいいかもしれません。

苦しいと言えますように。 そばにいてほしいと言えますように。

そして、誰かが勇気を出して…

「ここにいて」

って言った時…

正しい答えを急ぐのではなく、 その隣で一緒に目を覚ましていられますように💫

皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照:マタイの福音書26章38-39節
翻訳:新改訳2017