
今日はちょっと、主の祈りのことを考えていました😌
おはようございます☀️
はらぺこ僧侶です🤗
私が行く教会では、礼拝の最初の方で「使徒信条」と「主の祈り」を、みんなで唱えます。
これって、どこの教会でも同じなのかな…と思って調べてみたら、唱える順番も、毎週かどうかも、教派や教会によって結構違うみたいです。
なるほど、全部同じじゃないんですね😅
でも自分なりに考えてみると、使徒信条が「私たちは何を信じているのか」を確認する言葉だとしたら、主の祈りは「今、心をどこへ向けるか」を整える言葉なのかもしれないな、と。
まるで、心の再起動ボタンみたいだなって思ったんです😊
主の祈りは、イエスさんが聖書で教えてくれた祈りで、『マタイによる福音書 六章九節〜十三節』に記されています。
何度も唱えていると、慣れてしまって、言葉だけ先へ進んでしまうことってありますよね。
口は祈っているのに、頭の中では今日のお昼ご飯のことを考えていたり…。
なんやねん、私の集中力…ってなります😅
心理学の世界でも、同じ言葉を落ち着いたリズムで繰り返すことは、散らかった注意を一つの場所へ集めやすくすると言われています。
ゆっくり唱えていると、呼吸まで少し落ち着いていく気がするんですよね🍃
もちろん、主の祈りを唱えたら病気が治るとか、不安が全部なくなるとか、そんな魔法みたいな話ではありません。
でも、心があちこちへ飛んでいきそうな時、「帰ってこられる場所」にはなるのかもしれません😌
哲学者エピクテトスは、「人を苦しめるのは出来事そのものではなく、それをどう受け止めるかだ」というようなことを語りました。
私は、この言葉と主の祈りには、どこか重なるものを感じます。
『御心が行われますように。』(マタイによる福音書 六章十節)
そう祈る時、自分の思い通りにしようと握りしめていた手を、ほんの少し緩めることができます。
そして、『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。』(マタイによる福音書 六章十一節)
この言葉を口にすると、まだ来ていない明日の不安ではなく、「今日」という一日に心が向いていく気がします。
さらに、『私たちの負い目をお赦しください。』(マタイによる福音書 六章十二節)
そう祈る時、自分の失敗にも、誰かへの怒りにも、ずっとしがみついたままではいられないことに、ふと気づかされるんですよね。
主の祈りって、神さまへ要望を並べる祈りというより、自分が世界の中心になっていたことに気づいて、心の向きを整え直していく祈りなのかもしれません👆
宗教心理学でも、祈りの中に支えや意味を見いだせる人は、苦しい状況にも向き合いやすくなる一方で、「神さまに罰せられている」「見捨てられた」と受け取ってしまうと、かえって苦しさが深くなることもあると言われています。
つまり大切なのは、祈りの回数よりも、その祈りの中でどんな神さまを見ているのかなのかもしれません。
怒って監視している神さまなのか。
それとも、今日も必要な糧を与え、赦しを教え、悪から守ろうとしてくださる方なのか。
同じ主の祈りでも、見えている神さまによって、心への届き方は変わる気がするんですよね😊
今日は、この曲も一緒に置いておきます🎵
『主の祈り – Deliver Us』
頭で理解するというより、音楽と一緒に、ゆっくり心へ通していくような気持ちで聴いていただけたら嬉しいです。
今日の学びです🍀
主の祈りの力って、祈った瞬間に状況が思い通りに変わることではなく、状況に飲み込まれそうになっている自分の心を、愛と平安の方へ、そっと向け直してくれることなのかもしれません。
毎週同じ祈りを唱えるのは、毎週同じ自分だからではなく、少しずつずれていく心を、何度でも整え直すためなのかな…今日はそんなふうに思いました🥰
あぁ、主よ。
明日の不安に心を奪われている方には今日必要な糧を、自分や誰かを赦せずに苦しんでいる方には少しずつの解放を、そして誘惑や悪意、絶望に飲み込まれそうな方には、「あなたはひとりではない」という確かな平安をお与えください🙏
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
良い一日を🤗
God Bless You💫
参照: マタイによる福音書 6章9〜13節
翻訳: 口語訳