「あなたはイエス様を信じますか?」 『はい、信じます』
昨日のお話は、ここで終わりまして、それの続きです😊
おはようございます☀ はらぺこ僧侶です🤗
でもね。
あの時の私は、たぶんまだ本当の意味では信じてなかったんです🤣
昨日も書きましたけど、
織田信長好きです💕 イエスさんも好きです💕
くらいのレベルだったので笑
私の場合、「分からないから信じない」じゃないんですよね。
もっと単純🤔
見てないものは信じません。
神様なんて見たこともないし、復活やら奇跡とやらも、自分の目で確かめたわけじゃない。
イエスさんという人は好き。 言ってることも好き。
マジリスペクト😋
でも「神です」「復活しました」となると……
いや、知らんがなw😇
そんな私が、その一ヶ月後には洗礼を受けます。
早っ🤣🤣🤣
自分でも思います笑
でも、洗礼を受けた翌日から突然ものすごい信仰者になったわけでもありません。
その後もしばらくは、相棒が教会へ行くから一緒に行って、隣に座って聖書の話を聞く。
そんな感じでした。
…今これを書きながら思ったんですけど。
あの頃、隣に座っていた相棒は、何を思っていたんだろう。
私は胃を全部取ってもなかなか回復せず、心までボロボロになっていました。
何度も暴言を吐いて、大喧嘩もして、「もう離れるしかないよね」とまで思っていたのに、それでも二人で教会の扉をたたいてくれた。
そういえば、手術を受けると決めたのも、あの人の顔を見たからでした。
不安そうで、泣きそうな顔。
あれがなかったら私は、
『じゃあ、手術しなくていいですw』
で終わらせていたはずなんです。
あの頃どんな気持ちだったのか、ちゃんと聞いたことないんですよね。
今度、聞いてみようかな🥲
そんなある日、教会で御言葉が読み上げられました。
『神は愛です。』 ヨハネの手紙 第一 4章16節
……
あぁ… なるほど。
神って… 愛なのか。
って…その瞬間、
カチッ。
って、私の中で何かがハマったんです。
私は旧約聖書の神が嫌いでした。
特にアブラハムとその子供イサクの話。
長く待ってようやく与えられた息子を、全焼のささげ物として献げなさいって神が命じる。
当時の私には、
「自分の子どもを差し出せと言う無慈悲な神」
にしか見えませんでした。
怖いし、残酷だし、それのどこが愛なんだよって。
でも「神は愛です」という言葉を聞いてから、もう一度読むようになったんです。
すると、この話は最初からアブラハムが「試みられた」出来事として始まっていました。
山へ向かう途中、イサクから「いけにえはどこ?」と聞かれたアブラハムは、神ご自身が備えてくださると答える。
そして父がイサクを手にかける瞬間の最後に…
神が止めるんです。
そして、イサクの命ではなく、雄羊が備えられていた。
だから今の私はこの話を、神が子どもの生贄を欲しがった話… とは読んでいません。
もちろん今読んでも、
いや…… すごい試みだな😅
とは思います。
でも最後に残ったのは、人間が命を差し出すことではなく、
神が備えることだった。
そして聖書をその先まで読んでいくと、今度は神ご自身が与える側に立つ。
そこで私は、イエスさんを見るようになりました。
病気の人のところへ行き、嫌われていた人とも食事をして、罪をなかったことにはしないけれど、人を見捨てない。
そして十字架の上で、自分を殺そうとしている人たちのために、
『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』 ルカの福音書23章34節
と祈る。
しかもイエスさんは、
『わたしを見た人は、父を見たのです。』 ヨハネの福音書14章9節
とも言っています。
…あれ。
見てないものは信じない。 そう言っていた私が、
神がどんな方なのか知りたいなら、イエスさんを見ればいいんじゃないか?
そう思うようになりました。
そしてもう一つ。
何度も暴言を吐いた私を、それでも見捨てなかった人。
暴言に耐え続けること自体を「愛」と言いたいわけではありません。
傷つけたことは私の責任です。
でも、あの時あの人が私に差し出してくれていたものを、私は確かに見ていた。
私……
そういう愛なら、
もう見てたのかもしれない。
見てないものは信じないと言いながら、
一番近くで、ずっと。
そこから、私の信仰が本当に動き始めました。
とはいっても、大きな信仰じゃありません😂
イエスさんは、
『もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に「ここからあそこに移れ」と言えば移ります。』 マタイの福音書17章20節
と言っています。
からし種。
めっちゃ小さい🌱
私の信仰も、最初はそれくらいだったと思います。
でも、
ゼロではなくなった。
そして今、自分の人生を振り返ると…
バラバラだったはずの出来事が、一本の線に見えてくるんです。
あと3年で死ぬと思った。
一人のクリスチャンと出会った。
胃がんになり、泣きそうな顔を見て手術を受けた。
それでもなかなか回復できず、心まで病んで、大切な人を傷つけた。
二人で教会の扉をたたき、なぜか私は『はい、信じます』なんて答えてしまった🤣
そして、
「神は愛です」
という御言葉に出会った。
気づけば、死ぬと思っていた3年なんて、とっくに過ぎていました。
そして今。
私は教会のホームページを作って、聖書を読んで、音楽を作って、こんな長文まで書いている🤣
ネットで知らない人にまで、イエスさんの話をしています。
…
教会を論破しに行った人ですよ?😂
なんで今、
イエスさんを伝える側にいるんだよ🤣
ここまで来ると、さすがの私も思うんです。
これ…
全部、ここにつながってたの?
もちろん、
「神様が私を胃がんにしました」
なんて思ってません💦
病気になった人に「神様の計画だから」なんて簡単に言うつもりも… ないです。
痛かったものは痛かった。 怖かったものは怖かった。
それを後から全部、
「神様の計画でした🥰🥰✨」
なんて言葉できれいに塗り替えたくもありません。
でも…
起きてしまったことを、神様は無駄にはしないのかもしれない。
ヨハネの福音書9章で、生まれつき目の見えない人を前に、弟子たちは「誰の罪が原因なのか」って尋ねます。
でもイエスさんは、その人や両親の罪が原因だという見方を退けて、
『この人に神のわざが現れるためです。』 ヨハネの福音書9章3節
と答えました。
私は、自分がなぜ胃がんになったのかを説明したいわけじゃあないんです👆️
分からないものは、分からない。
でも、
「なぜこうなったのか」
だけじゃなく、
「ここから何が現れるのか」
なら、見ていける気がするんです。
だから今こうして生きていることを、
「治ったー!良かったー!🙌」
だけで終わらせたくはないんです。
むしろ…
ここからなんじゃないか。
新約聖書で、パウロはこう書いてます。
『食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』 コリント人への手紙 第一 10章31節
神の栄光って、空から光が…
ドーーーン!!✨
みたいなものだけじゃないのかもしれません。
もうダメだと思っていた人間がまた立ち上がって、与えられた命を今度は誰かに愛を渡すために使う🥰
それを見た誰かが、
「もしかして、神様って……」
って一瞬でも顔を上げる。
それって… 神の栄光を現すことなんじゃないかな…🤗
そして、ここまで書いて気づいたことがあります。
私が作ったアルバム 『聖域の幻響咆哮』。
一曲目の『鎮花 - Veiled Affection -』は、
「いつからだろう afraid of the end」
という歌詞から始まります。
終わりが怖くなった。
でもその歌の中で、
「でも今は ここにいたい」 「それでも今は 愛を信じたい」
って歌いました。
そしてアルバム最後の曲…
『叫祈 - I'm Still Here -』
私はまだ、ここにいる。
そして最後には、
「傷だらけのこの命 愛を叫び続ける」
と歌っています。
う〜ん🤔
これ、
私の証しそのものだよね?
終わりを怖がっていた私が、
ここにいたいと願って、 愛を信じたいと歌って、
そして今、
傷だらけのこの命で、 愛を叫び続ける。
アルバムを作った時… 今日こんな文章を書くために並べたわけじゃあ、なかった。
でも…
そこには、一本の線が出来上がってました。
全部が最初から、このために起きたのかのように…
バラバラだった点を今振り返ると、
一本の線になっている。
そしてその線の先で私は今、
サイトを作ったり、こうやってメッセージを書いて、聖書やイエスさんの音楽を作り… イエスさんのことをめっちゃ伝えている😳🙏
昨日…
証しは、奇跡自慢大会じゃなく、
自分が見たこと、経験したこと、受け取ったことを、自分の言葉で語ることって書きました。
だから、 これが今の私の証しです。
「私すごい」でも、 「回復した私すごい」でも… ありません。
私が受け取った命も、言葉も、音楽も、技術も、
自分を大きく見せるためじゃなくて、 神の栄光を現すために使いたい。
傷だらけのこの命で、 愛を叫び続ける。
今日も私は、 私にできることをやります😊✝️
皆様も、ゆっくりまったり良い一日をお過ごしください🤗
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照:ヨハネの手紙 第一 4章16節
翻訳:新改訳2017