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赦せない私が、手を離せる理由。

参照:エペソ人への手紙 4章32節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

赦すことは、悪をなかったことにすることではない。自分が赦された者として、憎しみに人生を支配させず、正義と報復を神に委ねる道を考えます。

朝焼けの中、十字架のネックレスに手を添え、もう一方の手を静かに開くはらぺこ僧侶。手前には切れた鎖があり、エペソ人への手紙4章32節の「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」という御言葉が大きく描かれている。

おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。

「絶対に許さない。」

この言葉って、ものすごく強いですよね。

でも、そう言いたくなるくらい傷ついたなら、そこにはちゃんと理由があると思うんです。

酷いことをされたのかもしれない。

裏切られたのかもしれない。

謝ってもらえていないのかもしれないし、相手は今でも、自分が悪いことをしたとすら思っていないかもしれない。

そんな時に、

「赦しなさい。」

だけ言われても……

いや、なんで傷つけられた私のほうが、さらに頑張らなきゃいけないの?

って思いますよね。

私は、そこを「クリスチャンなんだから赦しましょう」で終わらせたくないんです。

そもそも。

人は、どうして赦せるんだろう。

心理学の世界でも「赦し」はちゃんと研究されています。

傷つけられた出来事を「なかったこと」にするのではなく、その出来事や相手への怒り、復讐したい気持ちに、自分の人生を支配され続けないようにしていく。

そういう赦しには、人の心を少し自由にしていく力があることが分かっています。

だから、

「あなたがしたことに、これ以上、私の人生を支配させない。」

それだけでも、赦す理由になると思います。

ここまでは、イエスさんを信じていなくてもできる。

実際、人は信仰がなくても誰かを赦すことができます。

だから、

「イエスさんを信じなければ、人は赦せません」

と言ってしまうのは、私はちょっと違うと思うんです。

でもね…

聖書を読んでいると、その先がある。

ペテロがイエスさんに尋ねます。

自分に罪を犯した兄弟を、何回まで赦せばいいのか。

七回までですか、と。

イエスさんは、

『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』

と答えました。

マタイの福音書18章22節 新改訳2017

これだけ読むと、

「490回まで我慢しなさい」

みたいに聞こえるかもしれません。

でもイエスさんは、その直後に一つの話をするんです。

ものすごく大きな借金を抱えていた人が、その借金を全部赦してもらった。

ところがその人は外へ出ると、自分よりずっと小さな借金をしていた仲間を赦せなかった。

つまりイエスさんは、

「頑張っていい人になって赦しなさい」

だけを言っているんじゃない。

先に、

「あなたは、赦された人でしょう。」

というところへ連れていくんです。

パウロも同じことを書いています。

『互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。』

エペソ人への手紙4章32節 新改訳2017

私は、ここがすごく大きいと思うんです。

相手に「赦される資格があるか」と考え始めたら、たぶん赦せない人はいます。

本当に酷いことをした人もいる。

じゃあ、その時どうするのか。

十字架を見ると、今度は問いが自分のほうへ返ってくる。

私は、赦される資格があったんだろうか。

完璧だったから?

一度も人を傷つけなかったから?

神様の前で何も間違えなかったから?

たぶん、そうじゃない。

私は、正しかったから赦されたんじゃない。

神様に愛され、キリストにあって赦された。

だったら私も、相手の行為を正しかったことにしなくても、相手をもう一度信頼しなくても、同じ距離へ戻らなくても、憎しみに自分の人生を渡さずにいられるのかもしれない。

そして、もう一つ。

私は赦しについて考えていて、ここがものすごく大事なんじゃないかと思いました。

「私が赦したら、あの人が得をする。」

「私が怒るのをやめたら、悪かったことまで消えてしまう。」

そう思うから、私たちは怒りを握っていることがあります。

怒りを手放した瞬間、正義まで手放してしまうような気がする。

でも聖書は、

『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』

と語ります。

ローマ人への手紙12章19節 新改訳2017

これって、

「悪いことをされても黙っていなさい」

という意味ではないと思うんです。

むしろ逆です。

悪は悪として認める。

必要なら離れるし、責任を求めることもある。

暴力や犯罪なら、安全を確保して助けを求める。

赦すことと、何もなかったことにするのは違う。

赦すことと、もう一度その人を信頼することも違う。

それでも、最後の報復まで自分が背負わなくていい。

「この人が絶対に苦しむまで、私は許さない。」

その仕事を、自分が一生担当しなくてもいい。

神様に返していい。

あぁ。

神を信じるって、 こういうことでもあるのかもしれないなと思いました。

「神様はいると思います。」

それだけじゃない。

自分では決着をつけられないことを、神様に預ける。

自分の正しさも、相手への裁きも、自分の傷も、この先どうなるのか分からない人生も。

全部、自分だけで握っていなくていいと信じる。

そう考えていたら、もう一つのことまで見えてきました。

人間って、どうしてこんなに苦しくなれるんだろう。

愛されたいのに、傷つけ合う。

大切にしたいのに、自分を守るために誰かを攻撃する。

赦したいのに、赦したら負けたような気がする。

正義を求めていたはずなのに、いつの間にか相手が苦しむことを願っている。

聖書は、人間を「不幸になるために生まれた存在」だとは語っていません。

私たちは神様に造られ、愛されている存在です。

それでも、この世界には罪があり、私たち自身の中にも、自分を守り、自分を正しい場所に置き、他人を裁きたくなる心がある。

だから、神様から離れて全部を自分だけで背負おうとすると、しんどいんだと思うんです。

自分で自分の価値を証明して、自分で正義を実現して、自分で相手を裁いて、自分で自分まで赦さなきゃいけない。

……そりゃ、重いですよね。

信仰って、人生から苦しみがなくなる魔法じゃない。

赦せない気持ちが一晩で消えることでもない。

傷つけた人と、また仲良くしなければならないという命令でもない。

でも、

「これを全部、私一人で背負わなくていい。」

そう信じられることなんじゃないかな。

そして、自分がまず赦されたことを知った時、赦しは「相手のために我慢すること」から少し変わる。

自分が受け取った愛を、憎しみのところで止めないことになる。

今日、どうしても赦せない人がいるなら、無理に「赦しました」と言わなくてもいいと思います。

でも、こんな祈りならできるかもしれません。

主よ。

私はまだ、この人を赦せません。

されたことを思い出すと、今でも苦しいです。

だから、正しかったことにはできません。

でも、この憎しみにまで、これからの私の人生を渡したくありません。

私には背負えない正義を、あなたにお返しします。

私が赦されたように、いつか私も手を離せるようにしてください。

そして今日、憎しみに支配されず、あなたの愛の中を歩かせてください。

赦しとは、悪をなかったことにすることじゃない。

悪に、自分の人生の最後の言葉を言わせないこと。

なのかもしれません。

今日も皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照:エペソ人への手紙 4章32節
翻訳:新改訳2017

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