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神様って、誰のものなんだろう。

参照:マルコの福音書 12章29節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

『無職転生Ⅲ』のヒトガミから、「神」と「創造主」は同じなのかを考えた朝。八百万の神、初期仏教のブラフマー、ブラフマンをたどり、イエスさんの「主は唯一である」と隣人愛へ戻ります。

朝の黄金の光の中で手を差し伸べるイエスさん。「主は私たちの神。主は唯一である。マルコの福音書12章29節」と記された朝Messageのイメージ

おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。

今日、『無職転生Ⅲ』の最新話を観ていました。

久しぶりに出てきたヒトガミ。

名前からして「人神」。神なんですよね。

昔の私だったら、たぶん何の違和感もなく、「あぁ、この世界にはこういう神様もいるんだな」って受け入れていたと思います😂

だって私、日本人ですから。

「神様」と聞いて、一人だけを思い浮かべる文化で育ってきたわけじゃないんですよね。

八百万の神という言葉があって、太陽にも海にも山にも神様を見いだしてきた。日本には日本の神様がいて、外国には外国の神様がいる。そんな感覚が、私の中にはずっとありました。

宗教について考える時も似ています。

キリスト教にはキリスト教の神様がいて、イスラム教にはイスラム教の神様がいて、インドへ行けばまた違う神様がいる。

なんとなく、世界地図の上にそれぞれの国や宗教の神様が配置されていて、「あなたはどの神様を選びますか?」と聞かれているような感じです。

でも今日、ヒトガミを見ながら、急にそこで引っかかりました。

そもそも、なんでヒトガミを「神」だと思うんだろう。

未来を知っているとか、人間にはできないことができるとか、ものすごい力を持っているからでしょうか。

でも、それなら雷を操れる存在を雷神と呼んで、海を操れる存在を海神と呼んで……って、だんだん「特殊能力がすごい順に神様になる」みたいになってきます😂

なんか違うな、と思ったんです。

そこで最近、私は「神」という言葉を一度横に置いて、「創造主」という言葉から考えるようになりました。

創造主って、太陽担当とか、日本担当とか、キリスト教担当とか、そういう話じゃないはずです。

宇宙も物質も生命も含めて、そもそも「何かが存在している」という、その始まりにまで問いを戻していく。

そう考えた瞬間、神様を見る景色が少し変わりました。

もし本当に創造主がいるなら、その方は「日本人の神」ではないですよね。

アメリカ人だけの神でも、イスラエル人だけの神でもないし、キリスト教徒だけを造ったわけでもない。

国籍や民族や宗教を持つ前に、人間そのものを造った創造主なら、その方はすべての人の創造主です。

ここで、私の中にあった「宗教」のイメージが少し壊れました。

今までは、こちらの国にはこちらの神様、向こうの国には向こうの神様がいるように見えていた。そうすると、いつの間にか「私たちの神こそ正しい」「いや、こちらの神こそ正しい」という話にもなっていきます。

そこへ国や民族や権力まで入り込むと、神様にまで国境線を引いてしまう。

「神は私たちの側にいる」

この言葉が人間を分ける旗として使われたら、信仰は争いを止めるどころか、争いを正当化する道具にさえなり得ます。

もちろん、戦争の原因を全部「宗教のせい」にするほど単純な話ではありません。領土や政治、民族、資源、権力など、現実の争いにはいろんなものが絡みます。

でも、そこで私は逆のことを考えました。

創造主なら?

私が「敵」と呼んでいる向こう側の人も、その創造主が造った人なんじゃないの?

この問いが出てきてから、「唯一の神」という言葉の意味も、私の中で変わってきました。

少なくとも聖書が語る唯一の神って、たくさん並んでいる神様候補の中から「はい、この神様だけ採用します」と一柱まで絞り込む話じゃないんですよね。

神様オーディションじゃないんです😂

問いそのものが違う。

人間には理解できないほど強い存在がいたとしても、その存在が「すべての源なのか」という問いは別に残ります。

そこで今度は、はらぺこ“僧侶”として気になりました。

じゃあ、仏教はどうなんだろう。

ブッダさんは「神」をどう考えていたんだろう。

調べてみると、これが面白かったんです。

初期仏教の世界にも、人間を超えた神々のような存在は登場します。梵天、ブラフマーもその一つです。

でも「人間を超える存在がいる」ということと、「その存在が万物を造った創造主である」ということは同じ扱いにはなっていません。

初期仏典の『梵網経』には、あるブラフマーが自分より後にほかの存在たちが現れたことで、「自分が彼らを造った」と考える場面があります。

後から現れた側も、彼が先にいたため、「この方が私たちを造ったのだ」と考える。

でも物語を外から見ていると、実際にはそのブラフマーが彼らを創造したわけではありません。

これを読んだ時、

あぁ、ヒトガミを見ながら考えていたことと似てるな。

と思いました。

自分より圧倒的に力があるからといって、その存在が創造主とは限らない。自分より先にいたからといって、そこから自分が造られたとも限らない。

「すごい存在」と「すべての源」は、同じじゃないんですよね。

そして、ここでもう一つ気になった言葉があります。

ブラフマーと名前が似ている「ブラフマン」です。

これは神格として語られるブラフマーとは別で、古代インド思想の中で、世界の根底にある究極的な実在について考える時に使われてきた言葉です。しかもブラフマンの捉え方自体、一つではありません。

このあたりから、「宇宙そのものが神だ」とか「すべては一つだ」とか、「宇宙意識」「ワンネス」といった現代の言葉も、なんとなく近く聞こえてきます。

もちろん、それらを全部ブラフマンと同じ思想だと言いたいわけではありません。

でも昔の私なら、

「それ、いいじゃん」

って思ったと思います😂

世界中で呼び方が違うだけで、結局みんな一つの大きな何かを見ている。そう考えれば、宗教同士で争わなくても済む。

すごく綺麗にまとまるんです。

でも今は、そこでも一度立ち止まります。

「すべては一つ」と言った時、その一つって何なんだろう。

宇宙そのものなのか、意識なのか、何か根源的な原理なのか。

そして、その言葉を「神」と呼び替えただけで、「なぜ何かが存在しているのか」という問いまで答えたことになるんだろうか。

「宇宙そのものが神です」と言っても、私の中ではまだ一つ質問が残ります。

じゃあ、その宇宙はなぜあるんだろう。

たぶん私は、八百万の神から一人の神へ移動したというより、ずっと「源」を遡っているんだと思います。

目の前に神と呼ばれる存在がいたとしても、そこで止まらずに、その存在はどこから来たのかを考える。

そして宇宙までたどり着いても、「宇宙がある」で終わらず、その存在そのものの源を考える。

そうやって問いを遡っていた時、聖書のある場面が急に違って見えました。

使徒パウロがアテネを訪れた時です。

そこは宗教的なものがたくさんある街でした。

でもパウロは、そこで「私たちの地方の神様の方が、あなたたちの神様より強いですよ」という話を始めなかった。

使徒の働き17章24節で語り始めるのは、

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」

です。

新改訳2017でも、神を「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」方として語っています。そこからパウロは、すべての人にいのちと息と万物を与える神へと話を進めていきます。

これを読んで、

あぁ……

そういうことか。

と思いました。

創造主なら、「私たちだけの神」じゃないんです。

すべての人の創造主です。

だからといって、「じゃあ、すべての宗教は同じですね」と言いたいわけでもありません。

何が創造主なのかという問いは、ちゃんと残ります。

でも少なくとも、人間の側から神を所有することはできない。

「うちの神様」と「そっちの神様」に分けて、神様まで自分たちの陣営へ入れてしまうのは、何かがおかしい。

そして最後に、私はやっぱりイエスさんのところへ戻ってきました。

ある律法学者がイエスさんに、「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と尋ねます。

そこでイエスさんは答えます。

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」

マルコの福音書12章29節、新改訳2017。

そして、その唯一の神を愛することを語り、そのすぐ続きで「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と語ります。

ここ、私はすごく好きなんです。

唯一の神を語ったイエスさんの言葉が、人間同士を敵味方に仕分けする方向へ向かわない。

神を愛することから、隣人を愛することへ進んでいく。

しかもイエスさんは山上の説教では、さらにその境界を越えて、

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

とまで語っています。

そして天の父について、悪人にも善人にも太陽を昇らせる方だと話します。

マタイの福音書5章44〜45節、新改訳2017。

そう考えると、

「私たちの神」と「あなたたちの神」が戦っている、

という世界の見え方そのものが変わってきます。

だって創造主なら、私が向こう側に追いやった人も造ったんです。

国籍が違う人も、信じているものが違う人も、私と気が合わない人も、その命の源まで別々なわけじゃない。

だから今の私は、「唯一の神を信じています」という言葉を、

「私の宗教だけが勝ちです」

という意味にはしたくありません。

むしろ、本当に創造主が一人なら、世界を「こちら側」と「あちら側」に分けて、片方だけを人間として大切にしないことの方がおかしいんじゃないか。

昔の私は、日本の神、外国の神、キリスト教の神、仏教の神……そんなふうに横へ並べながら、「私はどれを選ぶんだろう」と考えていました。

ヒトガミも、その横に一人増えただけだったのかもしれません😂

でも今は、その横並びの表そのものから少し離れて、

「その全部の、さらに前は?」

と考えています。

すべての源は何なのか。

いや、「何」なのかではなく、

「誰」なのか。

そして私は、誰に自分の人生を預けるのか。

その問いをずっと遡っていったら、今日も私はイエスさんのところへ戻ってきました。

「主は私たちの神。主は唯一である。」

でも、その言葉のすぐそばには、神を愛することと、人を愛することが置かれていました。

私はそこが、とても好きです。

創造主が一人なら、人類の原点も一つ。

だったら信仰って、神様ごとに人間を分断するための旗じゃなくて、分けてしまった人間が、もう一度同じ原点を見つめ直すものなのかもしれません。

まさかヒトガミから始まって、八百万の神を通って、ブラフマーとブラフマンまで行って、最後にイエスさんへ帰ってくるとは思いませんでしたけど😂

アニメって恐ろしいですね🤣

朝からこんなところまで連れていかれました。

今日も皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏

良い一日を☀️

参照:マルコの福音書 12章29節
翻訳:新改訳2017

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