待つ時間って、心臓の音だけが大きくなる気がします。
おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。
METANOIAの作業も、正直もうやれることは全部やったんです。
直して、確認して、送って……
そこから先は、もう自分の手を離れました。
なのに今、画面の前でじっとしてるだけなのに、息が浅くなる瞬間があるんですよね😅
動いてる間は、まだ怖くないんです。
何か起きても「じゃあ直そう」って、また手を動かせるから。
でも待つ番になると、急に自分だけ置いていかれたみたいな感覚になる。
このまま何も起きなかったらどうしよう。
間違った方向に進んでいたらどうしよう。
まだ何も起きてないのに、頭の中の未来だけが勝手に暴れ出すんです。
そんな時にふと、この御言葉が浮かびました。
すべての物事には、ちゃんとした時があるっていう話です。
『すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。』 伝道者の書3:1 新改訳2017
最初は、
「あぁ、神様のタイミングがあるから焦らず待とう、って話かな」
って思ったんです。
でも読み進めると、そんな綺麗事だけじゃないんですよね。
生まれる時があって、死ぬ時がある。 植える時があって、抜く時がある。 泣く時もあれば、笑う時もある。
自分が選びたい瞬間ばかりが来るわけじゃない。
それで、あぁ、だから待つのは怖いんだって、腑に落ちました。
待ってる時間って「何も起きてない時間」じゃないんです。
次に何が来るか、自分にはまだ見えてない時間なんですよね。
今まで、「これで行ける」と思ったものが急に止まったり、作り直したり、遠回りしたように見えたことが何度もありました。
あとから振り返れば、 「あの時止まってよかった」 って思えることも確かにあります。
でも……
それは全部「あとになって」分かる話なんです。
渦中にいる私は、その結末をまだ知らない。
結果を知ってる人が「大丈夫、時があるよ」って言うのは簡単です。
でも待ってる本人は、大丈夫かどうかすら分からないまま、今日を過ごしてる。
だから「時を待ちましょう」だけじゃ、なんか足りない気がしたんです。
本当に怖いのは、時間がかかることじゃなくて、この先の自分がどうなるか分からないことなんだと思います。
それで、ふと気づいたんですけど。
神様は私に、未来の予定表を渡してくれたわけじゃないんですよね。
「9月何日にこれが起きて、そのあとこうなって、最終的にはこうなるから安心して」
……そんな親切な工程表、正直私も欲しいです😅
でも聖書で繰り返し語られてるのは、未来を全部教えてくれることより、
「わたしはあなたとともにいる」
っていう、すごくシンプルな約束だったりします。
待つ時間に必要なのは、未来を知ることじゃないのかもしれない。
先が見えなくても、ひとりじゃないって知ることなのかもしれない。
もちろん、「神様の時があるから」を、何もしない理由にはしたくないです。
今日できることがあるなら、ちゃんとやる。
謝る時なら謝るし、動く時なら動く。 植える時なら、ちゃんと植える。
でも、もう自分の手を離れたものまで、無理に握り直そうとはしない。
そこから先は……
怖くても、待つ。
信仰って、怖くなくなることじゃないんだと思います。
怖いままでも、 「それでも、ここにいよう」 って思えることなのかもしれません。
だから今、何かを待ってる人がいたら。
答えを待ってる人も、変化を待ってる人も、名前もつけられない「その時」を待ってる人も。
無理に「大丈夫」って思わなくていいと思います。
怖いなら、怖いままでもいいです。
私も今、正直怖いです。
でも、その怖さが消えてから信じるんじゃなくて……
その怖さのまま、今日はこの言葉を一緒に握っていたいです。
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。』 イザヤ書41:10 新改訳2017
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照:イザヤ書41章10節
翻訳:新改訳2017