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次の曲を、作らない朝。

参照:ルカの福音書10章39節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

9曲のアルバムを手放した翌日、次の曲を探す手を止めて、マルタとマリアの場面から「ただイエスさんの前に座って聞く」日曜日を考えます。

ステンドグラスの光が差し込む教会で、ヘッドホンをつけたピンク髪の人物が主のことばに耳を傾けている見出し画像

おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。

聞いてください、今朝ちょっと自分でもびっくりしたことがあって。

昨日の夜、最後の一曲『叫祈 - I'm Still Here -』を公開しました。

しかもこっそり、『鎮花』のフルアニメーションMVも一緒に公開してしまって😅

これで9曲。

『聖域の幻響咆哮』、ようやく全部揃いました。

……全部揃いました、って書いてるそばから。

今朝の私はもう、次の曲のことを考え始めてるんですよね。

人間って怖いです笑

あれだけ「ここまで作ったら終わり」って思ってたのに、一晩寝たら「次、何しようかな」に変わってる。

それで今朝、ふと思ったんです。

そもそも「完成」って、何なんだろうって。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーが、完璧を求める人にとって作品は本当の意味で完成するというより、あるところで手放すものなんじゃないか、という趣旨のことを書いています。

これ、ものを作る人には分かる気がするんですよね。

公開した後でも、あそこもう少し直せたな、あの音違ったかな、って探せばいくらでも出てくる。

たぶん、100%もう触るところがない、なんて瞬間は一生来ない気がします。

だから昨日私がしたのは、完璧なアルバムを完成させたっていうより、一緒に歩いてきた9曲を、自分の手から離した、っていう方が近いのかもしれません。

公開した瞬間から、その曲はもう私だけのものじゃなくなる。

誰かが朝に聴くかもしれないし、眠れない夜に聴くかもしれない。

何年か後に、偶然見つける人もいるかもしれない。

そして、その人が私とはまったく違う意味を受け取ることだってある。

そこから先は、もう私にはコントロールできないんですよね。

作るところまでは私の仕事。

でも、手を離れたものがどこへ届いて、誰の中で何になるのか。

そこまで握っておくことはできない。

もしかしたら「完成する」って、自分が納得しきることじゃなくて、握っていた手を開くことなのかもしれません。

……で、今日は日曜日。

教会に行きます⛪

そしたら今朝、ちょっと危ないこと考えてる自分に気づいて。

「今日教会行ったら、次の曲のヒント見つかるかも」

いや待って待って😅

教会まで制作資料にし始めたら、なんか違う。

賛美聴いて「このコード進行いいな」、御言葉聞いて「歌詞に使えそう」、誰かと話して「これ朝Messageのネタになるな」。

……職業病というか、創作病というか。

何でも作品の材料に変換し始めたら、私、いつ受け取る側に戻れるんだろうって。

そんな時に、マルタとマリアの場面を思い出しました。

イエスさんが家に来た時、マルタはいろんなもてなしに追われてる。

その隣でマリアは、

「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」

ルカの福音書10章39節 新改訳2017

イエスさんは、働くこと自体を悪いとは言ってないと思うんです。

誰かが動かないと始まらないことも、確かにある。

実際、マルタはイエスさんを家に迎え入れて、もてなそうとしていた。

でも、そのもてなしの中で心まで落ち着かなくなっていた。

一方のマリアは、その時、一回手を止めて、聞いてた。

これ、今朝の私にはけっこう刺さりました。

私はここ最近ずっと「作る側」にいました。

曲を考えて、歌詞を書いて、音を作って、映像を作って、公開して。

だから完成した次の日くらい、作る人を休んでもいいのかもしれない。

今日は、礼拝する一人に戻ります。

次の歌を探しに行くんじゃなくて、ただイエスさんの前に座ってみる。

面白いのが、たぶんその方が結果的には次の歌につながるんですよね。

でも、それを目的にしない。

ここが今の私には難しいところで。

何でも「役に立つか」で見始めると、御言葉まで素材になっちゃうし、人との出会いまでネタになっちゃう。

祈りまで制作工程になっちゃう。

それってなんか、寂しいなって。

好きな人と話す時、この会話何に使えるかな、なんて考えないじゃないですか。

一緒にいたいから、一緒にいる。

何かを得るためじゃなく、その人自身に会いたいから会う。

神様との時間も、本当はそうなのかもしれません。

そして考えてみたら、これって創作だけの話でもないんですよね。

仕事ができる人ほど、休みの日まで「この時間を有効に使わなきゃ」と思ったりする。

勉強している人なら、読書まで「何を学べたか」で測ってしまう。

誰かと会っていても、人脈になるか、役に立つか、何か得られるか。

いつの間にか人生全部を「成果」に変換し始める。

でも、人間ってたぶん、ずっと何かを生産するためだけに生きてるわけじゃない。

イエスさんの足もとに座って、ただ聞く時間があっていい。

役に立たないように見える時間が、無駄とは限らない。

むしろ、そういう時間がなくなった時、私たちは何のために走っていたのか分からなくなるのかもしれません。

だから今日の実践は、すごく簡単です。

何か一つ、成果に変換しない時間を作ってみる。

教会に行く人は、今日は一つだけ御言葉を受け取って帰る。

誰かに教えようとか、SNSに書こうとか、その場では考えない。

行かない人も、音楽を一曲聴くとか、空を見るとか、誰かと話すとか。

すぐ役に立てなくていい。

何か心に残ったら、一行だけメモして、そこから先は今日は作らない。

……これ、今の私が一番苦手なやつです笑

昨日、9曲を手放しました。

『叫祈 - I'm Still Here -』も。

そして、こっそり公開した『鎮花』のフルアニメーションMVも。

一つのアルバムが、私の手を離れて歩き始めた。

だから今日は、その続きを急いで作らなくていい。

次の曲は、もうどこかにあるのかもしれないし、まだ何もないのかもしれない。

それでいいのかな、って今は思ってます。

昨日は、作ったものを手放した日。

今日は、自分の手を空ける日。

何かを握ったままだと、新しいものを受け取れないですからね。

今日は教会に行ってきます。

作るためじゃなくて、聞くために。

何かを持って帰るためでもなく、まずはイエスさんの足もとに座るために。

そして次の歌のことは、そのあとでいい。

皆さんは、何かを「完成させた」次の日、どっちに転びますか。

すぐ次に向かっちゃうタイプですか。

それとも、一回ちゃんと座って受け取るタイプですか。

もしよかったら、その辺の感想とかコメントで聞かせてもらえたら嬉しいです😊

皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏

良い日曜日を☀

参照:ルカの福音書10章39節
翻訳:新改訳2017

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