復活したイエスさんが、朝ごはん用意してるんです。
おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。
今朝、なんとなくヨハネの福音書21章を読み返してて、また考えちゃったんですよね。
ヨハネの福音書っていうのは、伝統的にはイエスさんの弟子ヨハネに結びつけられてきた福音書で、この21章は、十字架にかけられて死んで、そこから復活したあとの話なんです。
人類史的には、とんでもない場面のはずなんですよ。
普通だったら、ここでバーンと音楽が流れて、光が差し込んで、
「さあ、世界よ!」
みたいな展開になってもいい気がするじゃないですか😂
でも実際に岸辺にあったのは……
炭火。
魚。
パン。
朝ごはんです🐟🍞
状況を話すと、イエスさんについてきた弟子たちの何人かが、夜通し漁に出てたんです。
でも何も捕れなくて。
そうこうしてるうちに夜が明けてきて、岸に誰かが立ってる。
言われた通りに網を打ったら、今度はどっさり魚が捕れる。
これだけでも十分すごい話なんですけど、私が好きなのはそのあとなんですよね。
陸に上がったら、もう炭火が用意されてて、魚がのってて、パンもある。
そこでイエスさんが言うんです。
『さあ、朝の食事をしなさい。』 (ヨハネの福音書21章12節・新改訳2017)
……つまり、「ご飯、食べよっか」ってことなんですよね。
死んで復活っていう、人類史上いちばん大きい出来事のはずのあとに、まず出てくるのが朝ごはんっていう。
なんか、いいなぁって思うんです。
私たちって「神様」とか「信仰」って聞くと、つい大きいものばかり想像しちゃう気がするんですよね。
使命とか、奇跡とか、人生の意味とか。
もちろんそれも大事なんですけど、ヨハネ21章のイエスさんは、その大きな出来事のど真ん中にいながら、ちゃんと炭火のそばにいて、魚とパンを用意してる。
しかもこの朝ごはんのあと、ペテロっていう、後にリーダー格になっていく弟子と、すごく深い会話をするんです。
「わたしを愛していますか」って三回問いかける、あの有名なやりとりです。
でも順番を見ると、あの深い話の前に、まず食事があるんですよね。
いきなり座らせて「ちょっと話があります」じゃない😂
まず、食べる。
炭火を囲む。
パンと魚を分ける。
それから話す。
もちろんこれは、「お腹いっぱいにすれば全部解決します」って話じゃないんです。
心の傷とか、罪とか、責任とか、そういうのは朝ごはんだけじゃ消えない。
でも逆に、「そんな普通のことは信仰と関係ない」とも、最近は思わなくなってきたんですよね。
誰かを愛するって、いつも人生変えるような言葉を言うことじゃない気がするんです。
むしろ「食べた?」だったりする。
寒そうなら温かいもの渡すとか、疲れてそうなら座らせるとか、話を聞く前にお茶を出すとか。
そのくらいのことしかできなくても、それでいい気がするんですよね。
これ書いてて思ったんですけど、信仰って思ってたよりずっと生活臭がするものなのかもしれないですね。
炭火の匂いがして、魚が焼けてて、パンをちぎってて、朝の光があって。
そこに、復活したイエスさんがいる。
私はなんか、こういうイエスさんが好きなんです😊
神様に近づくのに日常から離れなきゃいけないんじゃなくて、いつもの朝の中に、いつもの食卓の中に、誰かに何か渡す手の中に、「あ、ここにも愛ってあるな」って気づく瞬間がある気がします。
だから今日、そんなにものすごい一日にしなくてもいいのかもしれません。
世界を変えるようなことを一つやるより、目の前の人をちょっと大切にする。
自分の身体も雑に扱わない。
大事な話をするのは……まあ、朝ごはんのあとでもいいのかも😂
復活したイエスさんでさえ、岸辺に用意してたのは説教台じゃなくて、炭火と魚とパンだったので。
皆さんは今朝、何か口にしましたか?
それでは皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏
今日も一日、無理せずゆるっと過ごせますように☀️
参照:ヨハネの福音書21章12節
翻訳:新改訳2017