Message朝のメッセージ

疲れた人に、神様が最初にしたこと。

参照:イザヤ書40章29節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

疲れ切ったエリヤに、神様がまず与えたのは食事と休息でした。列王記第一19章とイザヤ40章から、休むこと、御言葉を聞くこと、そしてもう一度明日を見る「回復」を考える朝Message。

聖書時代を思わせる朝の風景で、疲れから回復へ向かうはらぺこ僧侶が巻物に目を落とす実写調の縦長見出し画像。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。」イザヤ書40章29節を主役にしている。

おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。

今朝、なかなか布団から出られませんでした。

体が鉛みたいに重くて、頭の中では「起きなきゃ、起きなきゃ」って何回も自分に言い聞かせてたんですけど、体がついてこなくて。

そういう朝、ありますよね。

疲れてる時って、なぜか「もっと頑張らなきゃ」って自分を追い込んじゃうことがあるんですよね。

早く元に戻らなきゃ、ちゃんとしなきゃって。

でも冷静に考えると、ちょっと変な話で。

疲れてる人にさらに頑張る力を要求したら、その人はもっと深く疲れてしまうだけなんじゃないかなって思うんです。

心も、たぶん同じです。

傷ついてる時に「気にするな」とか「前向きに考えよう」って言葉を重ねられると、励まされるどころか「まだ立てない私はダメなのかな」って、傷の上にもう一つ荷物を乗せてしまうことがあって。

そういう経験、私にも何度もあります。

そんな朝に、旧約聖書に出てくる一人の人のことを思い出しました。

エリヤという預言者です。

この人、直前の列王記第一18章では、とんでもない場所に立っています。

カルメル山で、バアルの預言者たちと対峙するんです。

あ、バアルというのは、当時のカナンやフェニキア周辺で礼拝されていた神で、雨や嵐、豊穣などと結びつけられていた存在です。

イスラエルの中にもこのバアル信仰が深く入り込んでいて、「イスラエルの神である主なのか、それともバアルなのか」というところまで来ていました。

しかも、その時は長い干ばつの最中です。

雨をもたらすと信じられていたバアル。

そしてイスラエルの神、主。

そんな背景の中で、カルメル山の出来事が起きます。

そこで主こそ神であることが人々の前に示される。

ものすごい場面です。

これだけ読むと、

「エリヤ、めちゃくちゃ強いやん」

って思うんですよね。

ところが、その直後です。

今度はイゼベルという王妃が出てきます。

イゼベルは当時のイスラエル王アハブの妻で、シドン人の王エテバアルの娘でした。

アハブは彼女と結婚し、バアルを礼拝するようになります。

そしてイゼベル自身もバアル信仰を強く支え、主の預言者たちを迫害していた人物です。

だからエリヤにとっては、単に「自分とは違う宗教を信じている王妃」なんて話ではありません。

実際に人の命を奪える権力を持った人です。

そのイゼベルが、エリヤの命を狙います。

するとエリヤは逃げるんです。

あれだけ大胆に人々の前に立っていた人が、今度は荒野へ逃げて、一本のエニシダの木の下に座ります。

そして、

「主よ、もう十分です。」

とまで言う。

そのまま横になって眠ってしまいます。

私はここ、すごく人間らしいなと思うんです。

昨日ものすごく強く立てたからって、今日も立てるとは限らない。

大きなことをやり遂げた直後に、張り詰めていたものが全部切れたみたいに、一気に動けなくなることだってあるんですよね。

じゃあ神様は、そんなエリヤに何をしたのか。

ここが今朝、すごく引っかかったんです。

エリヤが眠っていると、御使いが彼に触れて言います。

「起きて食べなさい。」

列王記 第一19章5節 新改訳2017

……あれ?

なんかこれ、昨日も似たようなの読んだぞ🤔

昨日読んでいたヨハネの福音書21章では、復活したイエスさんが、夜通し漁をしていた弟子たちのために岸辺で炭火を起こして、魚とパンを用意していました。

そして、

「さあ、朝の食事をしなさい。」

ヨハネの福音書21章12節 新改訳2017

って言うんですよね。

旧約聖書では、疲れ果てたエリヤに「起きて食べなさい」。

そして新約聖書では、夜通し働いた弟子たちに「さあ、朝の食事をしなさい」。

もちろん、全く別の時代の別の出来事です。

でも、なんか似てるんですよね。

どちらも疲れている人を前にして、いきなり説教から始まってない。

エリヤが目を開けると、そこには焼いたパンと水が用意されていました。

彼はそれを食べて水を飲むんですけど、

「はい、食べたね。じゃあ使命に戻ろう!」

……とはならない😂

エリヤ、また横になるんです。

もう一回寝る。

そして主の使いはもう一度戻ってきて、これから先の旅はまだ長いからと、再び食べるように促します。

なんかね。

神様は、エリヤの魂だけを見ていないんですよね。

ちゃんと体を見てる。

眠れているか。

食べられているか。

この先を歩くだけの力が残っているか。

だから私は、疲れている時に休むことも、食べることも、眠ることも、決して信仰の外側にあることじゃないんだと思いました。

でも列王記第一19章って、ここで終わらないんです。

ここからが、今朝いちばん考えたところでした。

食べ物によって力を得たエリヤは、その後、神の山ホレブまで歩いていきます。

そして今度は、そこで神様の声を聞くんです。

神様はエリヤに問いかけます。

そこでエリヤは、自分の中にたまっていたものを話します。

自分は主のために一生懸命やってきた。でもイスラエルの人々は契約を捨て、預言者たちは殺され、自分まで命を狙われている。

そしてエリヤには、もう自分しか残っていないように見えていました。

ここを読んでいて、

あぁ……

と思ったんです。

エリヤって、体だけが疲れてたんじゃないんですよね。

世界の見え方まで、疲れていたんじゃないかなって。

これ、疲れ切ってる時に起こることがあります。

本当に誰もいないのかどうかとは別に、「もう誰もいない」と感じる。

本当に道がなくなったのかどうかとは別に、「もう終わった」としか思えなくなる。

本当に神様が自分を見ていないわけじゃないのに、「私のことなんて、もう見えてないんじゃないか」と思ってしまう。

疲れって、体から力を奪うだけじゃなくて、見える世界まで小さくしてしまうことがあるんですよね。

だから、食べて眠るだけでは届かないところもある。

体が少し休まっても、

「私は一人だ」

「もう終わりだ」

という世界が心の中に残っていることがある。

そこで、御言葉なんです。

神様はエリヤの話を聞いたうえで、彼には見えていなかった現実を伝えます。

実際には、バアルに膝をかがめていない者たちが、イスラエルに七千人残されていました。

エリヤには、

「自分しかいない」

と見えていた。

でも、それが世界の全部ではなかったんです。

しかも神様は、ただ

「あなたは一人じゃないよ」

と慰めて終わりません。

これから進む道も示します。

そしてその道の先で、エリヤはエリシャと出会うんです。

やがて自分と一緒に歩き、働きを受け継いでいく人です。

ここで私は、

「あぁ、御言葉を聞くって、こういうことなのかもしれない」

って思いました。

御言葉って、疲れを魔法みたいに消す言葉じゃないんですよね。

聖書を一節読んだから睡眠不足がなくなるわけでもないし、病気が治るわけでもない。

傷ついた心が一瞬で元通りになるわけでもありません。

だから眠る必要があるなら眠るし、食べる必要があるなら食べる。

病院が必要なら行くし、人の助けや制度が必要なら借りる。

でも、それとは別に。

疲れ切った自分の目だけで世界を見ていると、その時見えているものが、世界の全部みたいに感じてしまうことがある。

御言葉は、そこに自分の外側から入ってくるんだと思うんです。

「本当にそれが全部なの?」

って。

エリヤには見えていなかった七千人がいた。

もう終わったように感じていた道にも、その先があった。

そして一人だと思っていたエリヤの前に、やがてエリシャが現れる。

現実そのものが突然全部変わったというより、

神様の言葉によって、

「自分が見えていた現実だけが、現実の全部じゃなかった」

と知らされるんですよね。

イザヤ書40章にも、似たことが書かれています。

有名なのは、

「疲れた者には力を与え、 精力のない者には勢いを与えられる。」

イザヤ書40章29節 新改訳2017

という御言葉です。

でも、この少し前から読むと、もっと深いんです。

イスラエルの人々は、自分たちの歩みが神様から隠れている、訴えも見過ごされているように感じていました。

つまり、

「神様、私たちのこと見えてないんじゃないの?」

っていうところまで来ている。

そこへ神様は、

「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。」

と語りかけます。

そして、ご自身が永遠の神であり、地の果てまで造られた方であり、疲れることも弱ることもない方だと知らせたあと、

「疲れた者には力を与える」

と続くんです。

だから、御言葉を聞くことと回復って、たぶん切り離せないんだと思います。

御言葉は、

「もっと頑張れ」

と疲れた自分を追い立てるための言葉じゃない。

自分の目だけでは見えなくなってしまったものを、もう一度見せてもらうための言葉なんじゃないかなって。

「私は一人だ」と思っていたところに、まだ人がいる。

「もう終わりだ」と思っていたところに、まだ道がある。

「神様にも見えてない」と思っていたところに、ずっと見ていた方がいる。

そうやって世界の見え方が少し変わると、

昨日まで見えなかった明日が、ほんの少しだけ見えてくることがある。

私は、それも回復なんじゃないかなと思います。

回復って、「何もなかった頃の自分に戻ること」だけじゃないんですよね。

失ったものが全部戻らないこともあるし、傷跡が残ることもある。

昨日までできていたことが、まだ今日はできないかもしれない。

それでも、少し眠れた日に「あ、眠れたな」って思えたり、何かを食べられたり、誰かと話したあとちょっと息が楽になったり、ふっと笑えたり。

そして、

「明日もあるのかな」

って少しだけ思える。

それだって、立派な回復の途中なんだと思います。

しかも昨日読んだヨハネ21章を思い返すと、イエスさんも弟子たちに朝ごはんを食べさせて、それで終わりじゃなかったんですよね。

食事のあと、ペテロと話します。

失敗を抱えていたペテロに向き合い、その心に触れながら、最後にはもう一度、

「わたしに従いなさい。」

と道を示していく。

先に食べさせる。

そして、言葉を届ける。

エリヤにも、どこか同じものを感じます。

体を無視して魂だけ励ますんじゃない。

でも、体を休ませて終わりでもない。

私たちは体だけでも、心だけでもないから。

疲れている体には休息が必要で、傷ついた心には安心して本音を言える場所が必要で、見えなくなってしまった世界には、もう一度、御言葉の光が必要なのかもしれません。

だから今朝、布団からなかなか出られなかった自分に、

「もっと頑張れ」

じゃなくて、

「今日は疲れてるんだな」

って言ってあげてもいいのかなと思いました。

そして少し休んだら、御言葉を開いてみる。

自分の疲れた目だけで見ていた世界とは、少し違う景色が見えてくるかもしれないから。

もし今日、疲れている方がいたら。

立ち上がることを急がなくていいと思います。

休む必要があるなら休んで、食べられるものを食べてください。

誰かに「しんどい」って言ってもいいし、病院や制度や周りの人の力を借りてもいい。

そして少しだけ余裕ができたら、御言葉を聞いてみてください。

今、自分に見えている世界だけが、

本当に世界の全部なのか。

神様の側から見たら、

まだ見えていない七千人がいるかもしれない。

まだ出会っていないエリシャがいるかもしれない。

まだ歩いていない道があるかもしれない。

あぁ主よ。

今、もう頑張れないところまで疲れている人がいるなら、どうか必要な休息を与えてください。

体が弱っている人には必要な支えを、傷ついている心には安心して本音をこぼせる場所を与えてください。

そして疲れによって、もう何もない、一人しかいない、明日なんてないとしか見えなくなっている人がいるなら、あなたの御言葉によって、その目にはまだ見えていないものを見せてください。

急がなくていいから。

今日を越えて、もう一度その人の目に明日が見えるところまで、どうかそばにいてください。

イエスさんの御名でお祈りします。

「疲れた者には力を与え、 精力のない者には勢いを与えられる。」

回復って、

元の自分に戻ることだけじゃなくて、

もう一度、明日が見えることなのかもしれません😌

皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏

良い一日を☀️

参照:イザヤ書40章29節
翻訳:新改訳2017

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