
おはようございます☀\ はらぺこ僧侶です。
今朝は、まず一つの言葉から始めたいと思います。
「争うべきは弓矢にあり、米・塩にあらず。」
上杉謙信の言葉として、後世に伝えられているものです。
ちょっと…武骨で、かっこよすぎませんか😳⚔️
戦国時代。
武田信玄が、今川・北条による塩止めで苦境に立たされた時。
長年の宿敵だったはずの上杉謙信は、その塩止めには加わらず、越後から武田領へ塩が渡る道を閉ざさなかった。
そんな逸話が残っています。
今でも使われる、
「敵に塩を送る」
という言葉も、この話にちなむものとして知られています🧂
もちろん、後世によく語られるような、
「謙信が大量の塩を無償でプレゼントした」
というところまで、すべて史実として確認されているわけではありません。
でもね…
私は、この逸話に込められている考え方が好きなんです。
戦は、する。
でも、相手の生きる糧までは奪わない。
刀は交えても、人としての一線は越えない。
敵だからって、
何をしてもいいわけじゃない。
……なんか、すごくないですか。
でね。
昨日、私はエペソ人への手紙6章を読んでいました📖✨
有名な「神の武具」のところです。
真理の帯。
正義の胸当て。
信仰の盾。
救いのかぶと。
そして、御霊の剣。
全身武装です😂⚔️🛡️
文字だけ見ると、
「よし、戦うぞー!🔥」
って感じがするじゃないですか。
でも、読みながらちょっと不思議だったんです。
これだけ「戦い」の話をしているのに、
足に履くものは、
平和の福音の備え
なんですよね。
戦う準備なのに、
平和を履く。
ここで一回、ん?🤔ってなりました。
そして、その少し前にはこう書かれています。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
エペソ人への手紙 6章12節\ 新改訳2017
つまり、少なくとも。
目の前の人間そのものを敵にする話ではないんです。
ここ、すごく大事だと思うんですよね。
上杉謙信の逸話では、
戦う相手であっても、その人たちが生きるための塩までは断たなかった。
そしてパウロは、
私たちの戦いの相手は「血肉」ではないと、最初に線を引いている。
なんだか、この二つが私の中でつながったんです。
人間関係で腹が立った時。
意見が合わない時。
ひどいことを言われた時。
信仰の考え方が違った時。
SNSで、
「いや、それは違うやろ😑」
って思った時。
私たちって、気づかないうちに、
「あの人が敵だ」
ってなりやすいんですよね。
相手の言ったことが間違っている。
相手のしたことが許せない。
そこまでは、あると思うんです。
でも…
いつの間にか、
「その行動が間違っている」
から、
「その人そのものが間違っている」
に変わってしまう。
さらに、
「あんな人は痛い目を見ればいい」
「困ればいい」
「全部失えばいい」
ってところまで行ってしまったら…
たぶん、もう別の戦いになっちゃってるんですよね。
イエスさんも、こう言っています。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
マタイの福音書 5章44節\ 新改訳2017
うーん…
まぁ…簡単じゃないですよね😅
いや、マジでw
「はい、分かりました🥰」
で出来るなら苦労しません😂
腹が立つものは腹が立つし。
傷ついたら痛い。
怖いものは怖いじゃん?
だから私は、
「敵を愛しなさい」
を、
「何をされても黙って耐えなさい」
という意味にはしたくないんです。
危険なら離れていい。
傷つけられているなら、助けを求めていい。
間違っていることには、
「それは違う」
って言っていい。
必要なら、
「NO」
って言っていい。
愛って、無抵抗になることでも、
自分を壊してまで相手に合わせることでもないと思うんです。
ただ…
相手の行動を拒否することと、
相手の存在そのものを憎むことは、
同じじゃない。
そこだけは、分けていたいなって思います。
上杉謙信の逸話では、
戦いをやめたわけじゃない。
でも、相手が生きるための道まで断とうとはしなかった。
イエスさんも、
罪や偽善、不正を曖昧にはしませんでした。
かなり厳しいことも言っています。
でも同時に、
罪人と呼ばれた人のところへ行き、
病んでいる人に触れ、
裏切った弟子を見捨てず、
十字架の上でさえ赦しを手放さなかった。
間違いを、
「まあいいよ」
と無かったことにする愛じゃない。
でも、その人まで捨ててしまう愛でもない。
戦いながら、赦す。
赦しながら、必要なら線も引く。
真実を言いながら、
相手の尊厳は奪わない。
うーむ…🤔
なんか、このバランスって。
言葉にすると綺麗なんですけど、
実際に生きるとなると、めちゃくちゃ難しいんですよね😅
だからこそ、
神の武具の「足」に、
平和の福音があるのかもしれません。
真理を身につける。
正義を胸に置く。
信仰の盾を持つ。
御言葉の剣も持つ。
でも、歩いていく足は、
平和を履いている。
なんか私は、そこがすごく好きです🕊️✨
本当に神様の武具を身につけていくなら、
強くなるほど、
人を憎むようになるんじゃなくて。
むしろ強くなるほど、
人を敵にしなくなっていく。
そんな生き方なのかもしれません。
今日もし、
誰かの言葉に、
「むっ😑」
ってなることがあったら。
すぐ反撃する前に、
一回だけ考えてみようかなと思います。
私は今、
この人の「したこと」と戦っているのか。
それとも、
この人そのものを敵にしてしまっているのか。
必要なら距離を取る。
必要なら「NO」と言う。
必要なら、はっきり真実を伝える。
でも…
その人が生きるための塩まで、
奪う自分にはならない。
塩は、送れる自分でいたい。🧂🫶
平和の福音を履いたまま、
今日も歩いていきます👟🕊️✨
皆様に、主の祝福と平安がありますように🙏
今日もゆっくりまったり、
良い一日を🥰☀️🙏
参照:エペソ人への手紙6章12節
翻訳:新改訳2017