
おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。
昨日、病院でいろいろ検査を受けてきました。
心配してくださった皆さん、祈ってくださった皆さん。 本当にありがとうございました🙏
結果から先にお伝えすると、肺炎と胸膜炎はちゃんと回復していて、CTも大きな異常なし。
MRI、心電図、心エコー、首のエコーまで一通り診てもらったんですけど、こちらも大きな異常はなくて。
先日、急に左目が見えなくなっちゃったんですけど💦 これも片頭痛の前兆みたいなものだった可能性がある、というお話でした。
とりあえず、ちょっとほっとしちゃってます😌
もちろん、これで「もう大丈夫」って自己判断するつもりはなくて、これからもちゃんと病院には通います。
でも…
結果を聞きながら、なんだか今日は「いのち」のことを書きたくなっちゃったんですよね。
実はもともと、次の朝のMessageは
「探している間も、価値は減っていない」
っていう話にしようと思ってたんです。
ルカの福音書15章に、イエスさんが話した「失われた銀貨」のたとえ話があります📖
十枚の銀貨を持っていた女性が、そのうちの一枚をなくしてしまって。
明かりをつけて、家じゅう掃いて、見つかるまで探すっていうお話なんですけど。
これ、考えてみるとちょっと不思議で。
なくした一枚って、自分では何もできないんですよね。
「ここですー!」
って自分から出てくるわけでもなく😂
ただ、見失われているだけ。
でも…
見失われたからって、その一枚が「いらないもの」になったわけじゃない。
だから、探すんですよね。
見つかるまで。
そして見つけたら、喜ぶ。
このたとえ自体は、罪人を迎え入れることを批判していた人たちに向けて、イエスさんが「神様がどれだけ、失われた人が立ち返るのを喜ぶか」を伝えるために話したものなので。
単純に「あなたには価値があります✨」だけの話にしちゃうと、ちょっと足りないんですけど。
それでも私は、この「見つかるまで」ってところが好きなんです。
迷ったところで。 失敗したところで。 見えなくなったところで。
「はい、ここまで」って、その人を置いていってしまう神様じゃない気がしていて。
そして今日は、もうひとつの言葉も思い出していました。
弟のラザロを亡くしたマルタに、イエスさんがかけた言葉です。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
ヨハネの福音書 11章25節 新改訳2017
……すごい言葉だなって、改めて思います。
「死なないようにする」だけじゃないんです。
「死んでも生きる」なんです。
私たちってどうしても、失ったら終わり、壊れたら終わり、病気になったら終わり、失敗したら終わり、って考えがちで。
最後は「死んだら終わり」って、そこで話を締めくくっちゃうんですよね。
でもイエスさんは、その「終わり」の中にまで入ってきて、死さえも最後の言葉にはしなかった。
だからキリスト教の希望って、「何も悪いことが起きませんように」だけじゃないんですよね。
病気にならないことだけでもないし、失敗しないことだけでもないし、死なないことだけでもない。
もちろん、生きたいですよ😅
健康でいたいし、痛いのも怖いのもできれば嫌だし。
だから病院にも行くし、検査も受けます。
でも…
私たちのいのちの価値って、今日健康だったから生まれたものじゃないし。
誰かに見つけてもらえたから生まれたものでもないし。
死が来た瞬間に消えてしまうものでもないんですよね。
失われた一枚を、見つかるまで探す。
そして「死んでも生きる」って言う。
なんかこの二つ、私の中でつながってるんです。
神様は、人を途中で「終了」にしない。
今日、自分がどこにいるのか分からなくなってる人もいると思います。
体のことで不安な人も。
仕事や人間関係、信仰、自分自身のことで、
「もう見失われちゃったかな」
って思ってる人も、いるかもしれません。
でも…
見失われてるように感じる時間の中でも、あなたの価値は減っていません。
神様の側では、まだ話は終わってない気がします。
だから今日も、生きてみましょう。
大きなことじゃなくていいんです。
ご飯を食べて。 薬が必要なら飲んで。 病院に行く日なら、行って。
誰かに助けてほしいなら、
「助けて」
って言って。
そうやって、今日一日を生きてみる。
私もそうします😊
改めて、心配してくださった皆さん、祈ってくださった皆さん。
本当にありがとうございました🙏
今日も皆さんの一日が、ちゃんと「続き」のある一日になりますように。
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照:ヨハネの福音書11章25節
翻訳:新改訳2017