Message朝のメッセージ

さばいてはいけません。あ、お魚の話ではありません🐟

参照:マタイの福音書 7章1-5節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」人を裁くことと、正しさを伝えること。その違いを、イエスさんの言葉から考えます。

「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」マタイの福音書7章1節を描いた朝のメッセージ画像

おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。

今朝は、まずイエスさんのこの言葉から。

「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」

マタイの福音書 7章1節 新改訳2017

……はい。

さばいてはいけない。

あ、これ、お魚の話ではないですよ😂🐟

もうすぐ秋ですし、秋といえばサンマですよね。

沖縄には糸満のお魚センターがあって、新鮮なお魚がずらーっと並んでいます。

お店によっては、その場で調理してくれたりもするので、

「さばいてはいけません!」

なんて入口で叫んだら、たぶん営業妨害です😂

そっちの「捌く」ではありません。

人を「裁く」ほうです。

最近ね…

自分の言葉で、人を傷つけてしまうことについて考えることが増えました。

もちろん、傷つけようと思って言っているわけじゃない。

むしろ、

「これは違うと思う」

「ちゃんと伝えたほうがいい」

「分かってほしい」

そう思って言っていることのほうが多いんです。

でも…

正しいことを言おうとしているうちに、

いつの間にか、

「その言葉は違うと思う」

から、

「あの人はこういう人だ」

に変わってしまうことがある。

行動について話していたはずなのに、その人そのものに判決を出してしまう。

「あなたは冷たい人だ」

「あの人は自分勝手だ」

「あの人はダメだ」

って。

一つの言葉や、一つの行動だけを見て、その人の全部を決めてしまう。

私も、やってしまいます。

チャーリー・チャップリンが、映画『独裁者』の最後の演説で、こんな言葉を語らせています。

「We think too much and feel too little.」

私たちは、考えすぎて、感じることが少なすぎる。

これ、なんか分かるなぁ…と思ったんです。

人を裁いている時って、ものすごく頭が働いていたりするんですよね。

「あの人のここがおかしい」

「前にもこうだった」

「だからこういう人なんだ」

って、証拠まで集め始める😂

脳内裁判、開廷です⚖️

検察官も私。

裁判官も私。

判決を出すのも私。

……被告側の弁護士、不在やん😂

でもね…

ここでもう一個、ややこしいことに気づいたんです。

誰かの話を聞いていて、

「あ、この人、今めっちゃ人を裁いてるなぁ」

って思うこと、あるじゃないですか。

そこで、

「ねぇ、今それ、人を裁いてるよ」

「だってイエスさんも『裁いてはいけない』って言ってるやん」

って突っ込む。

すると相手も、

「いや、裁いてないし!」

「そっちこそ私を裁いてるやん!」

ってなる。

……裁判所、増築です😂⚖️

裁かないための御言葉を使って、

相手を裁き始める。

これ、あるんですよね。

もちろん、

「今の言い方は決めつけになってない?」

って伝えること自体が悪いわけではないと思います。

間違っていることを、間違っていると言ってはいけない、という話でもない。

でも、

「あなたはいま人を裁いている人です」

って、相手に判決を出した瞬間に、

自分も同じ場所に立ってしまうことがある。

だからイエスさんは、

ただ、

「さばいてはいけません」

で止めなかったのかなと思ったんです。

続きにはこうあります。

「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」

マタイの福音書 7章2節 新改訳2017

これ、深いですね…。

「人を裁くな」

というルールを守りましょう。

それだけじゃない。

人を見る時に使っているその秤を、

自分にも当ててみなさい。

ということなんですよね。

「あの人はすぐ人を決めつける」

と思った時に、

私は今、その人を

「人を決めつける人」

と決めつけていないか。

「あの人には愛がない」

と思った時に、

私は今、その人に愛を向けているのか。

「あの人は裁いている」

と思った時に、

私は今、その人を裁く側に立っていないか。

……逃げ道がない😂

そしてイエスさんは、このあと「ちりと梁」の話で、さらにこう言っています。

「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」

マタイの福音書 7章5節 新改訳2017

ここも大事なんですよね。

イエスさんは、

「他人の間違いは一切見ないでください」

とは言っていない。

ちりは、ちりとして存在している。

しかも最後には、

兄弟の目からそれを取り除くところまで話している。

だから、

人を裁かないことと、

善悪を見分けないことは、

同じではないんだと思います。

誰かを傷つける行為なら、

「それはやめてほしい」

と言っていい。

自分が傷ついたなら、

「その言葉で私は傷つきました」

と言っていい。

間違いを指摘することだってある。

ただ、

「その行動は間違っている」

から、

「だから、あなたという人間は間違っている」

まで行かなくていい。

そして何より、

相手の目のちりを指摘するときほど、

一回、自分の目を確認する。

たぶん私が今日から練習したいのは、そこです。

誰かに何か言いたくなった時、

ほんの一回だけ止まってみる。

「私は今、この人の行動について話そうとしているのかな?」

それとも、

「この人そのものに判決を出そうとしているのかな?」

って。

そして、

「あ、この人いま裁いてるな」

と思った時こそ、もう一回。

「じゃあ私は、この人をどう見てる?」

って。

裁いてはいけない。

自分が裁かれないためです。

最初に読んだ時より、

ちょっと怖くて、

でも、すごく優しい言葉に聞こえてきました。

相手を見る前に、

まず自分の目を見てごらん。

イエスさんは、そう言ってくれているのかもしれません。

今日、脳内裁判が開廷しそうになったら…

一度、休廷しましょう😂⚖️

そして判決を出す前に、

自分の目の梁を確認する。

正しさを捨てるんじゃなくて、

正しさを、人を殴る武器にしない。

私も練習中です😌

皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏

今日もゆっくりまったり、良い一日を☀️

参照:マタイの福音書 7章1-5節
翻訳:新改訳2017

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