おはようございます☀
「優しい人」と、 「離れられなくさせる人」って、
外から見ると、びっくりするくらい似てることがあります。
困ったら助けてくれる。 話を聞いてくれる。 「いつでも頼っていいよ」って言ってくれる。
ありがたいですよね🥰 実際、それで救われることもあります。
でも、ときどき少しだけ違和感があるんです。
その優しさのゴールって、
相手が元気になることなのか。
それとも、 自分を必要としてもらい続けることなのか。
ここって、見た目だけではほとんど分からないんですよね。
そんなことを考えていたら、
「あぁ…世にいう“依存させたいおじさん”って、こういうことか😂」
って思ったんですけど。
そこで笑って終わると、 自分だけ安全地帯に立てちゃうんですよね😅
よく考えたら、これ、 おじさんだけの話じゃありません。
親子でも、夫婦でも、友達でも、 職場でも、教会でも起こる。
もちろん私にも起こり得る。
だって、人から必要とされるのって嬉しいじゃないですか。
「あなたがいてくれてよかった」
って言われたら、 自分にも価値があるような気がする。
ここまでは、別に悪いことじゃないと思うんです。
でも…
その人が元気になったら、どうだろう。
前ほど相談してこなくなった。
自分で決めるようになった。
自分以外の人にも相談するようになった。
本当なら、
「あぁ、よかった」
って喜ぶところですよね。
だって、それまで支えてきたことが実を結んだんだから。
なのに、なぜか寂しい。
「最近、全然連絡してこないな」
「前は何でも私に話してくれたのに」
「せっかくここまでしてあげたのに」
もし、そんな気持ちが出てくるとしたら…
少しだけ立ち止まったほうがいいのかもしれません。
もしかすると私は、 その人を支えていただけじゃなくて、
「その人から必要とされている私」
にも支えてもらっていたのかもしれない。
ここ、けっこう深いと思うんです。
心理学の「自己決定理論」では、 人が健やかに生きていくために、
誰かとつながっていることだけではなく、 自分で選んでいる感覚や、 「自分にもできる」という感覚も大切だと考えます。
しかも面白いのが、
「自律する」って、 「誰にも頼らない」ことじゃないんですよね。
助けてもらってもいい。
誰かを頼ってもいい。
「今日は一人では無理だから、助けて」
と自分で選ぶことだって、自律です。
問題は「頼ること」じゃなくて、
頼る相手まで、 頼り方まで、 離れる時まで、
誰かに握られてしまうことなんだと思います。
愛着についての研究でも、 人を世話する気持ちに自分自身の不安が強く混ざると、援助が相手中心ではなく、コントロールする方向へ傾く場合があることが報告されています。
もちろん、
「世話を焼く人=問題がある」
なんて話ではありません。
むしろ怖いのは、 本当に優しい人ほど気づきにくいことなんじゃないかな。
「あなたのためだから」
って、本気で思っているから。
でも、その言葉の奥に、
「私を必要としていてほしい」
が少し混ざることはある。
そう考えていたら、 福澤諭吉さんの『学問のすゝめ』を思い出しました。
そこには、
「一身独立して一国独立すること」
という章があります。
そして別の章には、
「わが心をもつて他人の身を制すべからず」
なんて題まであるんです。
もちろん福澤さんは、 “依存させたいおじさん問題”を書いていたわけではありません😂
明治という時代に、 日本という国がどう独立していくのかを考える中で、
一人ひとりが考え、 判断し、 責任を持って立つことを重く見ていた。
国ですら、
誰かに全部決めてもらう人を増やすだけでは、 本当の意味では立てない。
だったら人間関係も、 少し似ているのかもしれません。
そして、ここで思い出したのが、 マルコの福音書5章に出てくる男の人です。
この人は心も身体もボロボロで、 墓場で暮らし、
人々から何度も足かせや鎖でつながれていました。
でも、その鎖すら引きちぎってしまって、 誰にも手がつけられなかった。
その人がイエスさんと出会います。
そして助けられ、 正気を取り戻します。
そのあと、イエスさんが舟に乗ろうとすると、
彼は、
「一緒に行きたい」
と願うんですよね。
そりゃ、そうだと思うんです。
自分の人生を変えてくれた人です。
この人から離れたくない。
ずっとついて行きたい。
でもイエスさんは、 彼を連れて行きませんでした。
家族のところへ帰って、 主が自分にしてくださったことを伝えなさいと送り出します。 (マルコの福音書5:18-20)
ここを読んでいて、 私はあることに気づきました。
この物語の最初で、 彼は鎖につながれていたんですよね。
そして最後。
イエスさんは、
自分につなぎとめるための 「新しい鎖」を作らなかった。
これは聖書本文にそう書いてあるわけではなくて、 私がこの場面から受け取ったことです。
でも…
私はここが、すごく好きです。
助けてもらうだけだった人を、
今度は自分の場所へ帰り、 自分の言葉で、 自分に起きたことを伝える人として送り出している。
その人の人生を、
その人に返しているように見えるんです。
ここまで考えて、 ちょっと怖いことに気づきました。
私たちが誰かを依存させてしまうとき、
本当に怖いのは、
「この人が一人で歩けないこと」
じゃない場合もあるのかもしれない。
もしかすると、
この人が歩けるようになったら、
「私は必要なくなる」
ことのほうが怖い。
だから助ける。
だから世話をする。
だから心配する。
でも、その人が立ち上がりそうになると、 なぜか不安になる。
もしそうなら…
その人の弱さが、
いつの間にか 私の居場所になってしまっているんですよね。
これ、かなり怖いです。
愛しているつもりなのに、
相手が弱いままでいることで、 自分の価値を確認してしまう。
でも本当に相手のためなら、
その人が元気になることは、 私の「喪失」じゃなくて、
喜ぶべきことのはずです。
もちろん、
「じゃあ自立しなよ」
って放り出すのも違います。
そもそも自立って、 何でも一人でできることじゃありません。
病気や障害、介護、年齢や状況によって、 長く誰かの助けが必要なことだってあります。
頼っていいんです。
支えてもらっていい。
ずっと助けが必要でもいい。
大切なのは、
助けてもらいながらも、
「どう生きるか」を その人自身が選べる余白が残っていることなんじゃないかな。
そばにいる。
手を貸す。
一緒に考える。
必要なら何度でも助ける。
でも…
その人の人生のハンドルまで、 自分が握らない。
たぶん愛って、
相手を自分のそばに置いておく技術じゃなくて、
その人が自由になっていくことを 喜べることなんだと思います。
そして自由には、
ちょっと寂しいことも含まれる。
私以外の人を頼る自由。
私とは違う答えを選ぶ自由。
そしていつか、
私を必要としなくなる自由。
そこまで渡せるのかな。
今日、誰かに優しくするとき。
「この人には私が必要なんだ」
ではなく、
「この人が、この人の人生を生きるために、私は今なにができるんだろう」
って考えてみたいです。
そしていつか、
その人が一人で歩き出して、 こちらを振り返らなくなったとしても…
「あぁ、よかったね🥰」
って笑える人でありたい。
そばにいる。
でも、鎖にはならない。
今日差し出す優しさが、 誰かを自分につなぎとめるためではなく、
その人が、その人の人生へ帰っていける優しさでありますように🙏
皆様に主の祝福と平安がありますように🥰
今日もゆっくりまったり良い一日を🤗
参照:マルコの福音書 5章18-20節
翻訳:新改訳2017