Message朝のメッセージ

善意って、なんだろう。

参照:ルカによる福音書 6章43〜45節
文
はらぺこ僧侶
編集
METANOIA

宗教の勧誘をきっかけに、善意と悪意、人の心とその「実」、文化や教派の違いを越えて聖書に立ち返ることを考える朝Messageです。

朝の光の中、開かれた聖書を前に考えるピンク髪のはらぺこ僧侶と、多様な道や標識が広がる背景。「善意って、なんだろう。」「聖書に立ち返る」「ルカの福音書6章43〜45節」と記された朝Messageの見出し画像。

おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です🤗🌿

朝からなんですけど……

宗教の勧誘について、ちょっと思うところがあります。

……いや待って。

毎朝こうやって聖書のこと書いて、イエスさんの話して、「よかったら読んでね〜📖✨」みたいなことやってる私が、宗教の勧誘について語るんかい。

どの口が言うかw 😂

って、自分でも思いました。

まあでも……だからこそ、ちょっと考えちゃうんですよね🤔

誰かに、自分が大切だと思っているものを伝えることって、そんなに変なことじゃないと思うんです。

すごく良かった本があったら「これ読んでみて」って言いたくなるし、自分が救われた言葉があったら、苦しそうな人にも伝えたくなる。

美味しい店を見つけただけでも誰かに教えたくなるんだから、人生そのものが変わったと思えるものなら……

そりゃあ、伝えたくなりますよね😅

だから宗教を勧める人の中にも、本気で相手の幸せを願っている人って、たくさんいると思うんです。

騙してやろうとか、支配してやろうとか、そんなことこれっぽっちも考えてなくて、

「私はこれで救われたから、この人にも知ってほしい」

ただ、それだけ。

むしろ優しさだったりする。

……たぶん。

でもね。

そこで少し、引っかかるんです。

善意だったら、それで全部いいんだろうか。

って。

これ……難しいなぁ😶

だって人間って、間違っていることでも本気で正しいと思えるじゃないですか。

「あなたのためを思って言ってるの」

その言葉が、本当に愛から出ることもある。

でも同じ言葉で、誰かを苦しくさせることもあるんですよね。

怖いのは、悪意がある時だけじゃない。

悪意なんて全然なくても、人は人を傷つけられる。

逆に、内容としては正しいことを言っていても、心のどこかに「私を分かってほしい」とか、「私の方が正しいって認めてほしい」とか、ほんの少し混ざってることもある。

…………。

はい。

書いてて今、完全に自分に返ってきました😂💦

私も毎日こうして文章を書いています。

誰かが少し楽になったらいいなとか、聖書を読んでみようかなって思ってくれたら嬉しいなとか、イエスさんを知るきっかけになったらいいなとか。

そう思っています。

これは本当。

でもさ。

本当にそれ「だけ」なんかな……って。

「今日の文章よかったよ」って言われたら、普通に嬉しいですもん😂

共感されたら嬉しいし、読んでもらえたら嬉しい。反応がなかったら、ちょっと寂しい日だってある。

人間ですからねぇ……😅

そう考えると、善意と自己満足って、そんなに綺麗に線を引けるものでもないのかもしれません。

そんなことを考えていたら、ルカの福音書6章のイエスさんの言葉が、今朝すごく引っかかりました📖

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

ルカによる福音書 6:43-45 新共同訳

……これ読んで、ちょっと手が止まりました。

私、さっきまで「その人に悪意があるのか、善意なのか」って考えてたんですよね。

でもイエスさんがここで見ているのって、人の心を勝手に当てることじゃない。

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」

あぁ……

見るところ、そこなんだ😶

その人が何を名乗っているかでもなく、どの教派なのかでもなく、どれだけ優しそうなのかでもない。

そこから、何が実っているのか。

そして、もっと刺さったのが最後の言葉です。

「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

……これ、人のこと言ってる場合じゃないですね😂

私も毎日こうして言葉を出している。

じゃあ私の言葉は、どんな心から出てるんだろう。

愛からなのか。それとも「分かってほしい」が少し混ざってるのか。

うーん……

朝からイエスさん、なかなか痛いところ突いてきます😅

でも、その「実を見る」ということを考えていると、もう一つ思うことがあります。

文化って違いますよね。

国が違えば人との距離感も違うし、宗教も違う。同じキリスト教だって、カトリック、正教会、プロテスタントがあって、その中にもいろんな教派があります。

礼拝の仕方も違うし、祈り方も違う。聖書の読み方だって、細かいところでは意見が分かれる。

私は、その違いまで全部なくした方がいいとは思っていません。

むしろ、違って当然なんじゃないかなって😊

育った場所も、歴史も、見てきたものも違うから。

でも……

それでも私には、ここだけは譲れないっていう場所があります。

それが、聖書です📖

人はブレます。

私もブレます。

牧師さんも先生も教会も、人間が関わる以上、間違うことはあると思うんです。

教派の考え方だって、文化だって、時代によって揺れることがある。

だからこそ、私は最後に戻る場所が必要なんですよね。

「この人が言ったから」じゃなくて、「この教会が言ってるから」でもなくて。

聖書には、本当にそう書いてあるのか。

私は最後に、そこへ戻りたい。

ここは……たぶん譲れません。

そして私が聖書を信頼できる理由の一つって、誰か一人の頭の中にしかない秘密じゃないことなんです。

自分で開ける。

前後も読める。

違う翻訳とも比べられる。

「あれ?それ本当に書いてある?」って、自分で確かめられる。

だから、誰かが勝手に何かを足したら、

「あれ、それどこに書いてあるの?」

ってなる😂

逆に、都合の悪いところを削ったら、

「あれ、そこ抜けてない?」

ってなる。

聖書って、そういう意味でも強いなと思うんです。

人の言葉は変わる。

解釈も変わる。

でも本文を開けば、また戻って確かめられる。

だからもし、

「聖書には書いてないけど、本当はこうなんです」

とか、

「今の時代には、これが新しく必要なんです」

とか、

「ここだけに特別な真理があります」

みたいな話を聞いたら……

私は一回、立ち止まります。

いや、かなり立ち止まります😅

それが本当に神様から来たものなら、聖書とケンカしないはずだから。

イエスさんと、別の方向を向かないはずだから。

そしてもし、聖書だけでは足りなくて、誰か特定の人物や集団や追加の教えがないと神様へたどり着けない……

そんな話になってきたら、

私はそこで「待って」って言います。

だって、それを受け入れた瞬間、私の基準が聖書じゃなくて、その人になってしまうから。

それは……

私には無理です。

ここは譲れない。

でもね。

だからって、その人を悪人だと決めつけたいわけでもないんです。

本当に善意かもしれない。

その人自身も、心から信じているのかもしれない。

だから「悪い人だから間違っている」でもないし、「良い人だから正しい」でもない。

結局また……

人を裁くんじゃなくて、言葉を聖書に照らすところへ戻ってくるんですよね📖🌿

そしてこれは、私の文章も同じです。

「はらぺこ僧侶が言ったから」

で信じないでください😂

普通に間違える可能性あります。

私が聖書と違うことを言っていたら、私の言葉の方を捨ててください。

これは本気です。

聖書を私に合わせるんじゃなくて、私が聖書に合わせる。

私は、その順番でいたい。

たぶん……

だからこそ私は、聖書を信じるに値するものだと思ってるんですよね。

誰かを疑って生きたいわけじゃない。

でも、誰かを信じるために聖書を手放したくもない。

善意は大切。

でも、善意だけでは真実の証明にはならない。

だから愛しながら、ちゃんと確かめる。

違いを尊重しながら、譲れないものは譲らない。

なんか……

そういう信仰でいたいなぁって、今朝は思っています😌🌿

そしてもう一度、イエスさんの言葉に戻ります。

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」

今日、誰かの実を見て裁く前に。

まず自分の言葉から、どんな実が出ているのか。

そこを見てみようかなと思います。

主よ。

人の心を勝手に決めつけず、それでも真実とそうでないものを見分ける知恵をください。

誰かの優しさに流されることもなく、自分の正しさに酔うこともなく、何度でもあなたの御言葉へ戻らせてください。

そして私自身が、あなたの言葉に何かを付け加えたり、自分に都合の悪いものを減らしたりしないように。

私の言葉ではなく、あなたの言葉が残りますように。

イエスさんのお名前によってお祈りします🙏✨

皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏🌿

今日も良い一日を🤗☀️

参照:ルカによる福音書 6章43〜45節
翻訳:新共同訳

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