
おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。
昨日も、作りかけの音楽動画とにらめっこしていました。
まだ完成していません。 「できました!」と報告できる段階でもありません😅
それなのに、少し進んだ感じがしたんです。
映像が何秒伸びたとか、エフェクトが決まったとか。 最初はそういう話かなと思ったんですが、たぶん違いました。
「これを、みんなにちゃんと伝えたい」
その気持ちが、やっと自分の中に降りてきたんです。
今作っているのは、イエスさんの血を歌った曲です。
私の中では、歌詞も音も映像も、全部そこにつながっています。
でも、初めて見る人には分からないですよね。
ただ赤くて重たい曲に見えるかもしれない。 ゴシックな世界観の歌に聞こえるかもしれない。
もちろん、それが悪いわけではありません。 作品をどう受け取るかは、聴いてくれる人の自由です。
でも、「何を思って作ったのか」まで黙ったまま、 「きっと分かってくれるよね」と期待するのは、 ちょっと違うなと思いました。
ジョージ・オーウェルは、文章について、 意味に言葉を選ばせるのであって、言葉に意味を合わせるのではない、 という趣旨のことを書いています。 (『政治と英語』より要約)
先に格好いい言葉や映像を並べて、あとから意味を足すのではなく、 自分が本当に伝えたいものから、必要な言葉や表現を選ぶ。
昨日、少し進んだと感じたのは、 技術が進んだからではなく、 ようやく、その順番に戻れたからなのかもしれません。
聖書で「イエスさんの血」は、 怖さを演出するための言葉ではありません。
ヨハネの手紙 第一には、 御子イエスの血が、私たちをすべての罪からきよめてくださるとあります。 (ヨハネの手紙 第一 1章7節・新改訳2017)
私が歌いたいのは、血の赤さではなく、 そこまでして人を見捨てなかった愛です。
失敗した人を切り捨てるのではなく、 罪をごまかすのでもなく、 真実に向き合わせながら、それでも新しく歩ける道を開いた愛。
そこを伝えたい。
使徒の働きで、ペテロとヨハネは、 イエスさんの名によって語るなと命じられたとき、こう答えました。
「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」 (使徒の働き 4章20節・新改訳2017)
これは、大声で信仰を押しつけろという意味ではありません。
伝えることと、従わせることは違います。
相手がどう受け取るかを支配しない。 でも、自分が本当に受け取ったものまで、曖昧にして隠さない。
その両方が必要なんだと思います。
まだ動画は完成していません。
でも昨日、 「何を作るか」だけではなく、 「なぜ、誰に届けたいのか」が少し見えました。
だから、進んだ感じがしたんでしょうね😊
作品が動き出すのは、 ファイルが完成した瞬間だけではないのかもしれません。
誰かの顔を思い浮かべて、 この人に伝えたいと思えたとき、 まだ途中の作品にも、進む方向が生まれます。
今日、伝えたいことがあるなら、 うまい言葉を探す前に、 「私は、この人に何を渡したいんだろう」 と一度考えてみる。
答えが一文でも見えたら、 そこから言葉も、行動も、少しずつ選びやすくなると思います。
イエスさん。
あなたが十字架で示してくださった愛を、 飾りすぎず、押しつけず、隠さずに伝えられるよう助けてください。
言葉や音楽が、自分を大きく見せるためではなく、 誰かへ愛を届けるために用いられますように。
伝わらないときに相手を責めず、 伝わったときに自分を誇らず、 今日も愛から離れず歩ませてください。
皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照: 使徒の働き 4章20節
翻訳: 新改訳2017