朝のメッセージ

「しんどい」を、ひとりぼっちにしない

/ 参照: ヨハネの福音書 9章1-7節

はらぺこ僧侶
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METANOIA

「しんどい」と打ち明けた人に、正論や原因分析より先に寄り添うこと。ヨハネの福音書9章のイエスの姿から、苦しみをひとりぼっちにしない関わりを考えます。

カフェで向かい合う相手の話を聞くピンク髪のはらぺこ僧侶と、「しんどい」を、ひとりぼっちにしない、という見出し

おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。 今朝、ふと思い出した言葉がありました…

誰かが「ちょっとしんどくて」って言った時に、 「まあ、みんな色々あるからね」 って返されること、あるじゃないですか。 言った方に悪気はないと思うんです。

私もやってしまいますし…💦

励まそうとしたのかもしれないし、深刻になりすぎないように気を遣ってくれたのかもしれない。 でも、言われた瞬間に、 「あ、これ以上は話さない方がいいな」 って、心の扉がすっと閉まってしまう感覚。 わかる方、いますかね…😑

話した方は、特別扱いしてほしかったわけでも、全部解決してほしかったわけでもなくて。

ただ…

「それはしんどかったね」 って、一度そこに一緒に立ってもらいたかっただけだったりするんですよね。

人間関係が壊れるのって、大きな喧嘩をした時だけじゃなくて。

勇気を出して話したことを軽く流された時とか、つらさを伝えたのに、すぐ正論や解決策が返ってきた時とか。 そういう小さなすれ違いから、少しずつ話せなくなっていくことってあるなあと。

新約聖書ヨハネの福音書9章に、生まれつき目の見えない人を、イエスさんが見かける場面があります。 その時、弟子たちが真っ先に気にしたのは、

「どうしてこの人は目が見えないのか」 「本人と両親の、どちらが罪を犯したのか」 ということでした。 目の前に一人の人がいるのに、本人へ話しかける前に原因会議が始まっちゃう。

このあたり、ちょっと人間っぽいというか、身につまされる感じがします😅 イエスさんは、その問いにこう答えました。

『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』 (ヨハネの福音書 9:3) イエスさんは、この人の苦しみを、本人や家族の罪へ単純に結びつける見方を退けました。

そして、誰のせいなのかという話だけを続けるのではなく、その人の方へ向かい、実際に行動されたんです。

もちろん、この箇所は、病気や苦しみには必ず特別な意味があるとか、信じれば必ず治るとか、そういう約束では…

ありません。

少なくとも私はここから、 「なぜこうなったのか」 と説明することだけに留まらず、 「今、この人の前で何をするのか」 へ向かうイエスさんの姿勢を感じます。

原因を考えることが必要な時も、もちろんあります。 振り返ったり、改善したり、専門家へ頼ったり…🤔

でもそれは、苦しんでいる人を黙らせるためではなく、これから先の苦しみを減らすためにするものだと思うんです。

正しいことでも、言う順番を間違えると、人をひとりぼっちにしてしまうことがあります。 解決策より先に、理解してもらえたと感じること。 アドバイスより先に、最後まで話を聞いてもらえること。 それだけで、人はもう一度、自分のことを話せるようになるのかもしれません👆️

誰かが「しんどい」って言った時。 すぐ励ましたり、比べたり、答えを出したりする前に、

「そうだったんだね」 って、一度そのまま受け取れる人でありたいなと思います。

「みんなも大変だから」と話を広げるのは、今ここで話している一人を見てからでも、遅くないですから。

今日も、誰かの「しんどい」を、ひとりぼっちにしない一日になりますように🙏 良い一日を🤗

参照: ヨハネの福音書 9章1-7節
翻訳: 新改訳2017