朝のメッセージ

絶望が、最後の名前にならないように

/ 参照: エゼキエル書 37章14節

METANOIAという曲を手がかりに、絶望を最終結論にしない希望と、エゼキエル書37章の命の息を見つめる朝のメッセージ。

ピンク髪の女性が空を見上げ、「絶望が、最後の名前にならないように」とエゼキエル書37章14節が添えられたMETANOIAの見出し画像

おはようございます☀️ 今日は、私の曲について少しお話ししてみようかなと思います。 『METANOIA ~ルアッハ・ハコデシュ and you shall live~』っていう曲、聴いてくださった方もいるかもしれないんですけど。 あ、新曲ではないです笑 って、自分の曲を自分で解説するの、朝からセルフ副音声みたいでちょっと恥ずかしいですよね…😅 この曲で伝えたかったのは、「前向きに頑張れば、なんでも何とかなるよ」みたいな話じゃあないんです👆️ 歌詞の中に「愛は 絶望を 掴みて 希望という名に 塗り替える」っていう一節があって。 この「塗り替える」、絶望をなかったことにするって意味じゃないんですよね。 傷の上に明るい色を塗って、見えないことにするのとも違って。 曲の土台になっているのが、エゼキエル書37章なんですけど。 希望を失ったイスラエルの民が、谷に散らばる干からびた骨として描かれていて。 彼ら自身が「もう自分たちの望みは絶たれた」って言っちゃってるんです。 でも主は、そんな彼らに「元気なふりしなさい」とは言わないんですよね。 骨は骨のまま、乾きは乾きのまま、そのまま見つめた上で、ご自身の霊を彼らの内に置いて、もう一度生かすと語られる。 『わたしがわたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る』(エゼキエル書37章14節) 「骨ですけど気持ちは生き生きしてます!」では、さすがに無理がありますもんね😅 そういえばこの曲、タイトルに「ルアッハ・ハコデシュ(聖なる息)」って入ってるんですけど。イエスさんが復活したあと弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」って言った場面とも、ちょっと重なってる気がします。 聖書が語る希望って、現実を見ないことじゃなくて。見えている現実だけを、最終結論にしないことなのかもしれません。 心理学には「認知的再評価」っていう考え方があって。起きた出来事を消すんじゃなくて、その出来事に与えていた意味を見直すことで、感情との付き合い方を変えていく方法らしいです。 「失敗した」って事実が、いつの間にか「私は価値のない人間だ」っていう判決にまで広がってたなら、事実と判決をいったん分けてみる。 失敗はした。でも、自分の存在ぜんぶが失敗になったわけじゃない。 傷つけられた。それは、傷つけた側の行為が正しかったってことにはならないし、傷つけられたことで自分の価値まで失われたわけでもない… 古代の哲学者エピクテトスも、人を揺らすのは出来事そのものだけじゃなくて、その出来事について抱く判断でもあるって書いてたりします。 ただ、これって「苦しみなんて全部気の持ちようです」って話じゃなく… 暴力や不正は止めなきゃいけないし、逃げること、助けを求めること、治療を受けること、相手の責任を問うことが必要な時もあります。 現実を変える行動の代わりに、言葉だけ前向きにするのは、たぶんメタノイアじゃないんですよね。洗濯物の山を「布のインスタレーション」って呼んでも、洗濯物は片づかないですし😅 意味を見直すことと、必要な行動から逃げることは、ちゃんと分けなきゃなって思います。 新約聖書で「悔い改め」って訳されるメタノイアは、ただ落ち込んで反省することじゃなくて。心と判断の向きが変わって、その変化が生き方にも表れていくことを含んでるんですよね。 だから、誰かを傷つけたなら謝ればいいし、自分が傷つけられてるなら距離を取ってもいい。助けが必要なら「助けてください」って声に出していいし、自分を卑下する言葉が癖になってるなら、それを事実みたいに繰り返すのをいったんやめてみる…そのくらいの感覚でいいのかもしれません。 実は最近、諸葛亮の『出師表』を読んでて。国を託す皇帝に「不宜妄自菲薄」、みだりに自分を卑下してはならない、って諫めてるんですよね。 何の根拠もなく自信を持ちなさいって話じゃなくて。自分を低く決めつけることで、人の忠告も、自分に残された可能性も、最初から閉ざしちゃいけないっていう言葉らしくて。なんか、今日の話ともつながる気がしています。 METANOIAは、別人になるための歌じゃありません。一度も壊れたことのない人になる歌でもなくて。 壊れた場所を抱えたまま、「絶望だけに、私の名前を決めさせない」って向き直る歌です。 過去そのものは変えられなくても、過去に結びつけた最終判決は見直せる。 「もう遅い」「私には無理」「私には価値がない」 今日は、その言葉にまだ判を押さないでおきましょうか。 傷は傷として扱っていいし、間違いは間違いとして認めていい。責任があるなら、そこから逃げなくていい。でも「だから私はもう終わりだ」ってところまで、絶望に決めさせなくていいんです🤗 愛は、絶望をなかったことにはしません。けれど、絶望が私たちの最後の名前になることを拒みます。 そして主は、干からびた骨の谷でさえ「and you shall live」って、もう一度生きる方へ呼び戻される方なんですよね🙏 主よ。希望を失い、心が干からびたように感じる朝にも、私たちを見捨てずにいてくださることを感謝します。 痛みをなかったことにせず、事実から逃げず、それでも絶望を最終結論にしない心を与えてください。 自分を卑下する言葉にも、誰かを傷つける言葉にも支配されず、真実と愛の方へ向きを変えられますように。 逃げるべき時には逃げ、助けを求めるべき時には声を上げ、謝るべき時には誠実に謝る勇気を与えてください。 あなたの霊によって、乾いた私たちの内に新しい息を与え、今日できる一歩を、命の方へ踏み出させてください。 主の御名によってお祈りします。アーメン🙏 皆様に主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照: エゼキエル書 37章14節
翻訳: 新改訳2017