
おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。
昨日は、サイトのリニューアルにほとんど一日を使っていました。
何もなかった場所に新しいページができたり、うまく動かなかったものが動いたり。
一つ形になるたびに、誰もいないのに画面へ向かって、
「おおっ、できた」
って、ちょっと嬉しくなってました😅
新しいものを作る時間って、やっぱり面白いです。
ただ、作業がひと段落すると、今度は別のことが頭に浮かんできます。
Facebookのコメント、まだ返信できていないな。
音楽も、最近あまり進められていないな。
せっかく一つ前へ進んだはずなのに、なぜか「できたこと」より、「できなかったこと」の方が大きく見えてくるんですよね。
全部、大切だからだと思います。
サイトも大切。
音楽も大切。
コメントをくださる方とのつながりも大切です。
だからこそ、全部を同時にできない日は、何かを置き去りにしているような気持ちになる。
でも、少し考え直しました。
全部を大切にすることと、全部を同時に進めることは、同じではないんですよね。
一日は24時間しかないし、私も一人しかいません。
分身できたら便利そうですけど、たぶん全員で同じ場所を修正して、同じところで悩んでる気がします😅
ルカの福音書5章には、シモンたちが夜通し漁をしても何も捕れず、岸で網を洗っていた場面があります。
そこへイエスさんが来て、シモンの舟に乗り、群衆へ話をしたあと、もう一度、深いところへ舟を出して網を下ろすように語りました。
シモンは、自分たちが一晩中働いても何も捕れなかったことを伝えます。
それでも、イエスさんの言葉を受けて、もう一度舟を出しました。
そして最後には、魚が捕れたことだけで終わらず、彼ら自身がイエスさんに従う新しい歩みへ招かれていきます。
(ルカの福音書 5:1–11・新改訳2017/要約)
これは、「新しい挑戦をすれば必ず大成功します」という話ではありません。
この箇所の中心は、自分の計画を成功させる方法ではなく、イエスさんの呼びかけによって、生き方の向きまで変えられていくことです。
挑戦してもうまくいかない日はあるし、時間をかけて作ったものを、最初からやり直すことだってあります。
それでも私には、疲れて網を洗っていたところから、もう一度舟を出したシモンの姿が心に残りました。
新しい場所へ進む時、岸に残したものが急に大切ではなくなるわけではありません。
今まで使ってきた網もある。
一緒に働いてきた人もいる。
戻ってするべきことだってあります。
私も、返信できていないコメントをこのまま忘れていいとは思っていません。
遅くなっていて、ごめんなさい。
音楽を手放したわけでもありません。
また歌いたいし、作りたいものもあります。
ただ今は、サイトという舟を少し沖へ出している途中なんだと思います。
大切なものを捨てたのではなく、限られた時間の中で、順番をつけている。
そう考えると、少しだけ気持ちが変わりました。
もちろん、「挑戦しているから忙しい」を、人との約束や責任を雑にする言い訳にはしたくありません。
戻るべきところには戻る。
謝るべき時には謝る。
助けを求めている声を、忙しさの陰へ隠さない。
そこは忘れたくないです。
でも、できていないことへの罪悪感だけを燃料にして、全部を同時に動かそうとするのも違う気がします。
それでは新しい挑戦が、楽しむものではなく、終わりのない罰ゲームになってしまいます。
分からないから調べる。
失敗したら直す。
昨日できなかったことが、今日は一つできるようになる。
その途中を、もっと面白がっていい。
昨日できなかったことを数える前に、昨日初めてできたことも、一つくらい喜んでいいんですよね。
今日は今日の舟を、少し沖へ。
待ってくださっている人を忘れずに。
大切なものへ、また戻ってこられる道も残しながら。
知らなかった景色に出会う時間を、楽しんでみようと思います。
主よ。
できていないことばかりを数えて、目の前に与えられた挑戦の喜びを見失わないようにしてください。
大切な人や責任を置き去りにせず、それでも、すべてを同時に抱えられない自分を責めすぎることなく、あなたが示される方向を見分けられますように。
今日の舟を、愛から離れず、喜びをもって漕ぎ出すことができますように。
イエスさんのお名前によってお祈りします。
皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照: ルカの福音書 5章1–11節
翻訳: 新改訳2017