朝のメッセージ

もう一度、あなたと向き合いたい

/ 参照: マタイの福音書 22章39節

はらぺこ僧侶
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METANOIA

近い人ほど「言わなくてもわかる」と思い、会話を閉じてしまうことがあります。マタイの福音書22章とローマ人への手紙12章から、愛の境界を守りながら、関係へもう一度向き合う小さな一歩を考えます。

明るい部屋で微笑むピンク髪の女性と、「もう一度、あなたと向き合いたい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」「マタイの福音書22:39」の文字

おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。

「もういい」

このセリフ、言った瞬間はちょっとスッとするんですけど、 数分後には全然もうよくなかったりしません…?😅

だいたい、よくない。

心の中では、まだ言いたいことが渋滞してたりします🚗💦

これ以上言うと喧嘩になりそうだし、 説明するのもしんどいし、 できれば相手から先に「わかったよ」って言ってほしい🙄

これ、自分で言うのもあれですけど、 めちゃくちゃやりがちです笑

そうやって黙っているうちに、 同じ部屋にいるのに、 なんとなく遠い人になっていく瞬間ってありますよね。

夫婦でも、家族でも、友達でも。

関係って、大きな事件でいきなり壊れるんじゃなくて、 小さな「もういい」がじわじわ積もって、 気づいたら話せなくなっている。

そういうことの方が、実は多いんじゃないかなと思うんです🤔

愛していたら、ずっと仲良くできるはず。

昔は、どこかでそんなふうに思っていました。

でも実際は逆で、 愛しているからこそ腹が立つし、 期待しているからこそ傷つく、みたいなことがよくあります。

近い人ほど、 「これくらい、言わなくてもわかるでしょ」

って、説明を省略しがちで…

いや、わからんのですよね😂

自分の中では全部つながっている話でも、相手には一行も届いていなかったりします。

あるあるすぎて、もはや誰か共感してください😇

関係を続けるって、たぶん「別れずにいる」ことじゃなくて。

一緒に住んでいても、 何年一緒にいても、 会話を閉じたままだと、そこで止まってしまう気がします…🤔

反対に、気まずくても、また話してみる。

聞きたくない話でも、最後まで聞いてみる。

自分が悪かった部分は、 「でもさ」って続けずに謝ってみる。

そういう、あんまりかっこよくない地味な作業の積み重ねで、関係ってなんとか続いていくのかもしれません。

隣人って聞くと、知らない誰かとか、困っている人をイメージしがちですけど、

実は一番身近な、毎日顔を合わせている人こそ、 「隣人」だったりするんですよね。

イエスさんも、 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』(マタイの福音書 22:39)

と言っていますよね。

外では愛想よくできるのに、 家に帰った瞬間、返事が雑になる。

そんなこと… ありません?😅

知らない人には「ありがとうございます」って言えるのに、 一番支えてくれている人には、

言わなくてもわかっているだろうって、 なんとなく省略してしまう。

近いからこそ、愛を後回しにしてしまうことって、 意外とあるんですよね。

もちろん、 すべての関係を、何があっても続けなければならない、 という話ではありません。

暴力や脅し、人格否定が繰り返される場所から離れることは、 愛が足りないからではないです。

愛は、自分を壊し続けるための我慢ではありません。

聖書にも、

『あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい』(ローマ人への手紙 12:18)

とあります。

この「自分に関する限り」というところ、わりと現実的だな…って思います。

自分にできることは、ちゃんとやる。

でも、相手が向き合うべき責任まで、 代わりに背負うことはできないんですよね。

愛は一人でも選べるけど、 関係は一人だけじゃ続けられない。

だから、続けたい関係があるなら、 相手が変わるのを待つだけじゃなくて、

自分からできる小さなことを、 今日一つだけでも始めてみたいなと思います。

さっきの言い方、ちょっときつかったね。 話の途中でスマホ見ちゃって、ごめん。 昨日の続き、もう一回話さない?

そんな一言で全部解決するわけじゃないけど… 閉まりかけていた扉を、少しだけ開け直すことはできる気がします。

愛するって、 いつも正解を出すことじゃなくて。

うまくいかなかったあとにも、

「もう一度、あなたと向き合いたい」

って、選び直すことなのかもしれません🥹

それでは皆様、良い一日をお過ごしください✨️

今日も皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照: マタイの福音書 22章39節
翻訳: 新改訳2017