
おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。 ちょっと早いねw 実はこれから寝るんです💤 さて…昨日、礼拝に行ってきたんですけど、 「信じたら救われる」 っていう言葉、聞いたんですよね。 教会だと、もう耳にタコができるくらい定番のフレーズです😅 でも家に帰ってから、なんか引っかかっちゃって。 救われるって、結局なんなんだろう、って。 中国の孔子さんは『論語』で、政治について語る中で、 「名が正しくなければ、言葉もうまく通らず、物事も成り立たない」 っていう趣旨のことを話してるんですよね👆️ 「救い」って言葉も、中身を確かめずに使うと、わかった気になって、実は全然違う話をしてることがあるんですよね。 だからって、全部の宗教を… 「良い人になって死後に合格をもらうためのもの」 みたいに一括りにしたら、それはさすがに雑すぎます笑 仏教だと、人間の問題は「苦」で、その原因になる渇愛とか執着から考えるんです。 原因を見つめて、八正道を歩いて、苦が止んだ涅槃へ向かう。それが救いとして語られます。 ヒンドゥー教の諸伝統では、カルマで繰り返される生と死、輪廻からの解放「モークシャ」が大きな目的なんです。 何によって解放されるかは、知識だったり、行為だったり、瞑想だったり、神への信愛だったり、伝統によって全然違うんですよね😳 神道🇯🇵はちょっと毛色が変わって、キリスト教みたいな一つの救済教義があるわけじゃないんです。 穢れを祓い清めて、神々を敬って、自然や地域とのつながりの中で感謝しながら生きる。そこが大事にされてるんですよね。 イスラム教は、唯一の神を信じて、従って、悔い改めて、正しく生きること。そこが大事にされてるんです。 でも単純に「善行の点数で天国に入る」みたいな話でもなくて。 クルアーンには、罪を犯した人にも神の慈悲に絶望するな、って言葉があります。 伝承にも、人は自分の行いだけじゃなくて、神の慈悲によって楽園に入る、みたいな言葉が残ってるんですよね。 こうやって並べてみると、そもそも宗教によって「人間の何が問題なのか」がバラバラなんです。 診断が違えば、救いの形も変わる。当たり前っちゃ当たり前なんですけど、改めて考えるとおもしろいですよね🤔 以前の私は、 「ほかの宗教は人間が努力して神へ登るけど、キリスト教は神が人間のところへ降りてくる」 って説明したくなること、よくありました…🤔 わかりやすいんですよ、これ。 でも神学的にはちょっと乱暴だったなって、今は思います😅 イスラム教も神の慈悲を語りますし、ヒンドゥー教にも神へ委ねる信愛の道があります。 だから、 「ほかは努力、キリスト教だけが恵み!」 みたいにきれいに切り分けようとすると、違いをちゃんと表せてないんですよね💦 キリスト教の救いの特徴って、単に「恵みという考え方がある」ことじゃないと思うんです。 その恵みが、イエスさんの生涯と行動、そして十字架と復活として、実際にこの世界に示された。 そこに、キリスト教の救いの大きな特徴があると思うんです。 イエスさんが、取税人のザアカイに出会ったときの話、好きなんですけど。 イエスさんは、 「先に不正なお金を全部返しなさい。そうしたら、あなたの家へ行きます」 とは… 言わなかったんです。 罪人って呼ばれてたザアカイさんの名前を、先に呼んだ。そして、先に彼の家へ行くって決めたんです。 条件も交渉もなし。順番、完全に逆なんですよね…😳 でもそこで終わりじゃなくて。 迎えられたザアカイは、自分が傷つけた人たちへ償うことを、自分から申し出るんです。 その場面で、イエスさんはこう言いました。 『人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』 (ルカの福音書 19:10) キリスト教の救いって、人間が神さまへたどり着く前に、イエスさんの方が先に、失われた人を捜しに来るんですよね🤗 罪を見て見ぬふりするためじゃないんです‼️ 罪と死から救って、神さまとの関係を回復させて、もう一度、愛の方へ歩き直せるようにするため。 パウロも、こう書いてます。 『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。』(エペソ人への手紙 2:8) そして、このすぐ後には、私たちは良い行いに歩むために造られた… と、続きます。 良い行いを切り捨ててるんじゃなくて、順番を直してるんですよね👆️ 救いって、良い行いへの給料じゃないんです。 かといって、 「信じたから、もう何しても大丈夫」 っていう免許でもないんです…🤔 ザアカイがそうだったみたいに、先に受け取った愛が、悔い改めとか償いとか、人への接し方を変えていく。 良い行いは、救われるための入場料じゃなくて、救いを受け取った人の中から自然に出てくる応答なんだと思います。 「信じたら救われる」 この言葉、間違いじゃないんです。 でも私は、この一言で話を急いで終わらせたくないんです… 何から救われるのか。 誰が救うのか…? 救われたあと、どんな生き方へ向かうのか。 そこまで見て、やっとイエスさんの救いって、少しずつ見えてくる気がします。 誰かに信仰を伝えるときも、先に答えを渡す前に、その人が何に苦しんで、何を失って、どこで動けなくなってるのか、聞きたいなって思うんです。 自分自身に対しても、 「私は救われるだけの点数、取れてるだろうか」 じゃなくて… 「私を捜してくださるイエスさんの方、今日も向いてるだろうか」 って、考えてみる。 その恵みが、今日会う一人への態度をちょっと変えるなら、救いってもう、遠い死後の話だけじゃないと思うんです🥰 「信じたら救われる」と聞いたとき、 あなたは、何から救われることを思い浮かべますか❓️🤔 そして今、自分ではどうにもできないと感じている場所は、どこでしょうか❓️ 少しだけ、そのことを考えながら祈りたいと思います。 イエスさん。 失われた私たちを捜して、救うために来てくださったこと、感謝します。 自分の正しさや行いを誇るんじゃなくて、あなたの恵みを受け取らせてください。 同時に、その恵みを言い訳にせず、傷つけた人には誠実に向き合って、愛するべき人を愛せるように助けてください。 信仰の違う人を雑に決めつけることなく、それでも、あなたから受け取った救いを曖昧にせず伝えられますように。 今日も、愛の方へ歩ませてください。 主の御名によってお祈りします。 おはようございます、そして… おやすみなさい💤 良い夢を🙏
参照: ルカの福音書 19章10節
翻訳: 新改訳2017