朝のメッセージ

神と付き合っていい、という愛

/ 参照: ヘブル人への手紙 10章22節

神に近づく資格がないと感じる時、十字架が開いた「新しい生ける道」と、関係を回復へ導く愛について考えます。

朝の光が差し込む扉の前で、ピンク髪の女性が十字架のネックレスを身につけて立つ見出し画像。「神と付き合っていい、という愛」とヘブル人への手紙10章22節の言葉が記されている。

【神と付き合っていい、という愛】 おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。 「すべての現実の生は、出会いである」 マルティン・ブーバー『我と汝』(私訳) …って、いきなり哲学っぽい言葉から始めましたけど。 「関係者以外立入禁止」って書いてある扉、見るだけでちょっと背筋伸びません…? 別に入るつもりとかないのに、なんかこう、急に自分が怪しい人になった気がしてくるんですよね😅 「ここから先は、あなたの場所じゃないですよ」って言われてる感じ。 あの一枚の紙?地味に強いんですよね😮 これってね、人との関係でも、似たようなことあるよなぁって思うんです。 話しかけたい。 助けを求めたい。 もうちょい近づいてみたい。 みたいにね。 でも、迷惑かもって思う。 拒まれるくらいなら、最初から近づかない方がマシですよね? そうやって、自分で自分に「立入禁止」の札、勝手に立てちゃうことって… あるんですよね。 心理学ではこういう、近づきたい気持ちと、傷つくのが怖くて離れたい気持ちが同時に来る状態を「接近・回避葛藤」って呼ぶらしいです。 好きな人に連絡したいのに、文章を打っては消して…… 相談したいのに、「まぁ、大したことじゃないし」って飲み込んで…… 入りたいのに、入口で引き返して…… ……あれです。 下書きだけが、やたら充実していくやつ😅 冒頭の言葉を書いたマルティン・ブーバーは、人との関わり方には、相手を自分にとって役立つ何かとして見る関係と、相手を一人の「あなた」として迎える関係がある、というようなことを考えました。 これ前にも書いた気がします👆️ これね、神との関係でも同じことが起きるのかもって、ふと思ったんです。 神について知識を集めたり、願いを叶えてもらうための方法としてだけ扱ったりすると、それって神を道具として見てるのに近いのかもしれません。 やっちゃってませんか?🤔 でも聖書が描いてるのって、神について知ることだけじゃなくて、神と実際に付き合っていくことなんですよね。 ただ、これは、昔からずっと気軽に許されてたわけじゃないんです。 旧約聖書の出エジプト記24章に、モーセ、アロン、ナダブ、アビフ、そしてイスラエルを代表する70人の長老たちが、山へ呼ばれる場面があります。 でも、全員が同じところまで近づけたわけじゃありませんでした。 モーセさんだけが神の近くまで行くことを許されて、ほかの人たちは遠くから礼拝する。 民に至っては、山に登ることさえ許されなかったんですよね。 「ここから先は、近づいてはいけない」 って。 神の存在を知っていても、誰もが気軽にその前へ進めたわけじゃあ… なかったんです。 これ、昔の神が意地悪で、後から優しくなった、みたいな単純な話じゃないんですよね。 聖書はこの距離を、神の聖さと、人間側の罪や暴力、自己中心さの問題として描いています。 愛だから、何をしても大丈夫、にはならないというか。 誰かを傷つけても、嘘をついても、力で押さえつけても、「愛があるから気にしなくていい」とは、たぶん言えないんですよね。 愛って、人を生かすものです。 だからこそ、人を壊すものを「まぁ、いいか」で済ませないんだろうなって思います。 でも、人間の側が完璧になってから近づこうとしたら、たぶん誰も入口を通れないじゃないですか。 そこで登場するのが、✝十字架。 イエスさんが十字架で息を引き取った時、神殿の聖所を隔てていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けたと、マタイの福音書27章には書かれています。 そしてヘブル人への手紙では、イエスさんがご自分のからだを通して、神に近づくための「新しい生ける道」を開いてくださった、と説明されています。 だから、 「全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」 (ヘブル人への手紙10章22節・新改訳2017) ってね。 遠くから眺めるだけだった人が、近づいていいって言われた。 資格を証明できなかった人が、招かれた。 神について話すだけじゃなくて、神に話しかけて、付き合っていくことが赦されたんですよね。 十字架の愛って、こういう感じのものでもあるんじゃないかなって、私は思うんです。 「ちゃんとしてから来なさい」って門の向こうから叫ぶだけじゃなくて、来られない人のところまで迎えに行って、自分が道になる。 そんな感じなんですよね。 だから、神に話しかける時、別に立派な文章とか準備しなくていいと思うんです。 信じきれないなら、信じきれないまま。 腹が立ってるなら、腹が立ってるまま。 何て言えばいいか分からなければ、黙ったままでもいいと思うんです。 「こんな自分が近づいたら失礼かな」って、遠くに立ち続けなくていいんですよね。 もちろん、近づけるってことは、神を自分に都合よく使っていいって意味じゃありません。 関係は、片方だけが好き勝手できるものじゃないから。 神と付き合っていくなら、自分の嘘とか、人を傷つけたこととか、見ないふりをしてきたものにも、向き合うことにはなると思います。 でもそれって、追い出すためじゃなくて、関係を壊しているものから回復させるためなんだろうなって思うんです。 愛されるって、何をしても構わないっていう免許じゃないんですよね。 失敗しても、本音のまま戻ってこられる場所を持ってる。 そういうことなのかもしれません。 今日、神という存在がまだよく分からなくても、難しい祈りはいらないと思うんです。 「本当にいるなら、今日は少しだけ付き合ってください」 それくらいからでも、たぶん大丈夫です。 誰かとの間に距離を感じてるなら、 「ちゃんと話せる時でいいからね」 って、短い一言を送ってみるのもいいかもしれません。 自分の中で「ここから先はダメ」って札を勝手に立ててる場所、ちょっとだけありませんか。 愛って、無理やり距離を詰めることじゃないんですよね。 相手が近づこうとした時に、立入禁止の札ばかり見せないこと。 近づく道を、一つだけでも残しておくこと。 そういうものなのかもなぁって、今日はそんなことを考えてました。 お祈りします。 主よ。 自分には近づく資格がないと思い、遠くに立ってしまう時、あなたが開いてくださった道を思い出させてください。 うまく話せない日も、疑っている日も、飾らないままであなたと向き合えますように。 そして私たちも、誰かの前に立入禁止の札ばかり立てるのではなく、その人が安心して戻ってこられる道を残せますように。 イエスさんのお名前によってお祈りします。 皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏

参照: ヘブル人への手紙 10章22節
翻訳: 新改訳2017