
おはようございます☀️ はらぺこ僧侶です。
昨日、歌を作りながら、発音沼にハマってました。
「To haima Iesou」
たった一行なんです。
Sunoに歌わせてみたら、
「オ ハイマ イエッソー」
いや違う、そうじゃなくて……と直したら、
今度は、
「オ ハイマ アイエッソー」
もうね、一行相手に何人で会議してるんだって話です笑
アルファベットを変えたり、発音記号を入れたり、カタカナを混ぜたり。
書いている文字は合っているはずなのに、耳に届く音が全然違う。
これ、歌だけじゃないよなって、途中でふと思ったんです。
「言ったこと」と「伝わったこと」って、実は別物なんですよね。
「ちゃんと言ったよ」
「前にも説明したよね」
そう思っていても、相手には突き放されたように聞こえていたりする。
逆に、相手が一生懸命話しているのに、こっちが自分に都合よく変換してしまうこともあります。
伝えるって、正しい言葉を相手の前に置いたら終わり、じゃないんだなと。
このことを考えていたら、聖書の一節を思い出しました。
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』
(ヨハネの福音書 1:14・新改訳2017)
神は、遠くから正しいことを伝えて終わるのではなく、人となって、私たちの現実の中へ来られた。
届く距離まで、近づいてくださったんですよね。
愛って、
「正しいことを言ったんだから、あとは受け取る側の問題」
では終わらないのかもなって。
相手のいる場所まで、こちらから少し近づいていく。
ただ、これは相手に合わせて、本当のことを曲げるのとは違います。
優しさだけで濁さない。
正しさだけで押し潰さない。
その両方を失わずに伝えることが、大事なんだと思います。
もちろん、何度説明してもこちらの言葉を意図的にねじ曲げる人や、そもそも聞く気がない人にまで、永遠に付き合う必要はないと思っています。
伝わらない責任を、全部一人で背負わなくていい。
距離を置いた方がいい関係もあります。
でも、普段のちょっとしたすれ違いの中で、
「言ったんだから分かるはず」
と思った時には、もう一度だけ考えてみたいなって。
私の言葉は、相手にはどんな音で届いたんだろう。
相手が言いたかったことを、私は自分に都合よく変換していないかな。
今日は「前にも言ったよね」の前に、一言だけ変えてみる。
「こういう意味で合ってる?」
って、一回だけ聞き直してみる。
それだけで、ずっと噛み合わなかった会話が、少し動くこともあります。
歌の発音も、人との会話も、正しい文字だけでは完成しないんだなと、しみじみ思いました。
届くまで、ちょっとだけ近づいてみる。
でも、自分をすり減らしてまでは、いかない。
そのちょうどいい場所を、今日も探していきたいです。
では、今日もゆっくりまったり、良い一日を🤗
参照: ヨハネの福音書 1章14節
翻訳: 新改訳2017