おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。
今日は、ちょっと生々しい話をします🫰
宗教と、お金の話です💰
教会に行くと、献金があります。
宗教団体には建物があったり、働いている人がいたり、印刷物を作ったり、誰かを支援したり…
当然、そこにはお金がかかります。
でも、ふと思うんです。
宗教や、クリスチャンって、お金を払わないとダメなんでしょうか。
献金しないと、ちゃんとした信者じゃない?
お金を出さないと、祈ってもらえない?
たくさん献げた人ほど、神様からたくさん祝福される?
逆に、献げなかったら祝福されない?
…これ、考え始めると結構怖い話なんですよね😳
しかも私は、宗教団体を外から眺めながら、
「宗教がお金を求めるなんて、おかしい!」
って安全な場所から言える立場でもありません。
だって、このMETANOIAにも支援の仕組みがあります。
直接「献金してください」という形ではないけれど、欲しいものリストのように、活動を支えてもらうための仕組みもあります。
サイトを維持するにもお金はかかる。
作品を作るにも、機材にも、活動にもお金がかかる。
あ、ちなみに音楽を聴くのも、朝のメッセージや幸せ解体新書ラジオ聴くのも、お金は一切かかりませんので、ご安心ください🤗
だから…というか、
「宗教にお金が関わること自体が悪い」
とは、私は思いません。
じゃあ……
何が違うんでしょう。
聖書には、ものすごく分かりやすい場面があります📖
使徒の働き8章。
シモンという人が、使徒たちを通して聖霊が与えられるのを見て、その力を自分も欲しいと思いました。
そして、お金を差し出したんです。
するとペテロは、かなり厳しく言います。
「あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。」
使徒の働き 8章20節 新改訳2017
つまり……
神様からいただくものは、お金では買えない。
聖霊は買えないんです。
救いも、そして、赦しも買えない。
祈りも、本来「お金を払った人だけに神様へ届けてもらえるサービス」ではない。
イエスさんも弟子たちを遣わす時、
「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」
マタイの福音書 10章8節 新改訳2017
と語っています。
だから少なくとも、
「これだけ払えば、神様に近づけます」
「これだけ献金すれば、病気が治ります」
「この金額を献げれば、もっと祝福されます」
「払わなければ祈りません」
みたいに、
神様の恵みに値札をつけることはできない。
…じゃあ。
ここで、もう一つ疑問が出てきます🤔
それなら、
献金なんてしなくていいんじゃない?
って。
ところが聖書は、そこまで単純でもないんです。
マラキ書3章10節。
ここには、十分の一を倉に携えて来て、神の家に食物があるようにすることが命じられています。
そして、その中で神様は、
「わたしを試してみよ」
とまで語ります。
さらに、天の窓を開いて祝福を注ぐこと、土地の実りを守ることまで語られていきます。
つまり聖書には、確かに、
「献げること」と「神様の祝福」
が結びついている箇所があるんです。
ここを無視して、
「献金しても何の祝福もありません」
と言ってしまうのも、ちょっと違う。
ただね…
マラキ書をよく読むと、
「1万円払えば10万円になって返ってきます」
なんて話はしていません。
倉に食物があること。
神の家が支えられること。
土地の実りが守られること。
そして、その少し前には、雇い人の賃金を不正に扱うことや、弱い立場の人を苦しめることまで神様は問題にしています。
つまり、
自分だけ金持ちになるための投資として献金する話ではない。
共同体の中で、神様から与えられたものを正しく用いる話でもあるんですよね。
そして新約聖書では、もっとはっきりした言葉があります。
「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」
コリント人への手紙 第二 9章7節 新改訳2017
これ……
すごく大切だと思うんです。
強いられてでもなく。
なんですよね。
怖がらせて払わせるものじゃない。
「払わないと神様に嫌われるよ」
でもない。
周りがみんな献金しているから、仕方なく財布を開くことでもない。
心で決める。
そして、喜んで与える。
さらにその続きでは、神様が恵みを豊かに与えてくださるのは、
私たちが、
「すべての良いわざにあふれるようになるため」
だと語られています。
ここが、私にはすごく大事に見えるんです。
与えた。
↓
神様が祝福してくださった。
↓
だから、自分だけもっと贅沢になった。
……ではなくて。
与えた。
↓
神様が必要を備えてくださる。
↓
また誰かへ与えることができる。
そんな循環です。
ピリピの教会も、パウロの働きを実際に物質的に支えました。
その支援を受け取った後、パウロはこう語っています。
「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
ピリピ人への手紙 4章19節 新改訳2017
だから私は、
献げることと祝福には何の関係もない
とも言いたくありません。
聖書は確かに、喜んで与える人と神様の祝福について語っている。
でも……
ここには大きな違いがあります。
料金と、献げ物は違う。
料金は、
「これを払ったから、これをください」
という交換です。
でも献げ物は、
「すでに神様からいただいたから、その一部を喜んで用います」
という応答なんじゃないでしょうか。
救いを買うためではない。
神様の愛を買うためでもない。
祝福を購入するためでもない。
すでに受けた恵みに、どう応えるのか。
なんだと思います。
そしてこれは……
METANOIAにも、そのまま返ってくる問いです。
私たちにも支援の仕組みがあります。
だからこそ、
もしMETANOIAがいつか、
「これを買ってくれた人は神様から特別に祝福されます」
なんて言い始めたら……
私はそれは違うと思います。
「支援した人だけ祈ります」
「たくさん支援した人ほど大切にします」
「支援しないなら、この活動に参加する資格はありません」
そんな場所にもしたくない。
支援しても、しなくても。
御言葉の価値は変わらない。
人の価値も変わらない。
神様の愛に値札はつかない。
でも同時に、
誰かが、
「この活動を続けてほしい」
「これを誰かに届けてほしい」
と思って、自分から喜んで支えてくださるなら……
それは、とてもありがたい献げ物だと思います😌
たぶん問題なのは、
お金がある宗教なのか、お金がない宗教なのか
じゃない。
そのお金で、
神様を売っていないか。
人の不安を利用していないか。
祝福を商品にしていないか。
そして受け取ったものを、自分だけのために抱え込んでいないか。
そこなんじゃないかなって思うんです。
だから今日もし、何かを献げるなら……
怖いからじゃなくていい。
人に褒められるためでもなくていい。
見返りを買うためでもない。
自分の心で決めて、
喜んで与えられるものを与える。
そして受け取る側にいるなら……
神様の名前を使って、人を追い込まない。
「もっと出しなさい」と恐怖で縛らない。
いただいたものを、また誰かのために使う。
神様の祝福は、買えません。
でも、
祝福された人が喜んで誰かへ与えることはある。
そして聖書は、
そんな人を神様が支え、さらに良いわざへと導いてくださることも教えています。
今日は、お財布を開く前に……
そして誰かにお財布を開いてもらおうとする前に……
一度、自分の心を見てみたいですね😊
これは料金なんだろうか。
それとも、
感謝から生まれた献げ物なんだろうか。
主よ。
私たちが、あなたの恵みに値札をつけませんように。
そして、あなたからいただいたものを、自分だけのものにせず、喜んで分かち合える者にしてください🙏
受け取る時にも、与える時にも、
お金より先に、そこにいる人を大切にできますように。
皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰🙏
参照:使徒の働き8章20節/マタイの福音書10章8節/マラキ書3章10節/コリント人への手紙 第二9章7節/ピリピ人への手紙4章19節
翻訳:新改訳2017