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「誰が隣人か」より、誰の隣人になるか。

参照:ルカの福音書10章36–37節
はらぺこ僧侶
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METANOIA

おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。 「大丈夫?」 って送るの、意外と勇気いりません?😅 いつもより返事が遅いとか、なんとなく元気がなさそうとか。 気にはなる。 でも、 「いや、考えすぎかな」 「余計なお世話だったらどうしよう」 って、ちょっと迷うんですよね🤔 たった四文字なのに😂 困っ…

ルカの福音書10章37節の「あなたも行って、同じようにしなさい。」を大きく配置し、隣人になるはらぺこ僧侶を描いた朝Message見出し画像

おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。

「大丈夫?」

って送るの、意外と勇気いりません?😅

いつもより返事が遅いとか、なんとなく元気がなさそうとか。

気にはなる。

でも、

「いや、考えすぎかな」 「余計なお世話だったらどうしよう」

って、ちょっと迷うんですよね🤔

たった四文字なのに😂

困っている人が目の前で「助けてください!」って言ってくれたら、たぶん話はもう少し簡単なんです。

でも実際の生活って、そんなに分かりやすくない。

助けが必要なのかどうかも分からないし、どこまで踏み込んでいいのかも分からない。

なんなら、相手がちょっと苦手な人だったりもする😅

そう考えていたら、ルカの福音書10章に出てくる律法の専門家の質問が、前よりちょっと人間っぽく見えてきたんです📖

この人はイエスさんとのやり取りの中で、

神を愛すること。 そして、隣人を自分自身のように愛すること。

そこまではちゃんと答えられました。

ところがそのあと、彼は「自分の正しさを示そうとして」、

「では、私の隣人とはだれですか」

と聞くんです。

最初は私、この質問を普通に

「隣人って誰のことですか?」

という質問として読んでたんですけど…。

なんか、もう少し違うものも見えてくるんですよね🤔

「隣人を愛しなさい。それは分かりました」

でも、

「どこまでですか?」

って。

家族まで? 友達まで? 同じ民族なら? 気の合う人なら?

逆に言えば、

「どこから先なら、私は愛さなくても大丈夫ですか?」

という境界線を探す質問にも見えてくる。

あぁ…。

これ、私たちもやるなぁって思ったんです😅

「この人の問題に、私が関わる必要ある?」

って。

そこでイエスさんは、答えの代わりに一つの物語を話します。

ある人がエルサレムからエリコへ向かう途中、強盗に襲われました。

傷つけられて、半殺しにされて、道に置き去りにされてしまう。

そこへ祭司が来ます。

倒れている人を見ます。

でも、反対側を通り過ぎていく。

次にレビ人も来ますが、やっぱり通り過ぎていきます。

そして三人目に現れたのが、サマリア人でした。

当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い隔たりがありました。

だからこの話を聞いていた人たちにとって、「そこでサマリア人!?」という登場だったと思うんです😳

でも、その人は倒れている人を見ると、かわいそうに思った。

そして、近づいた。

傷を手当てして、自分の家畜に乗せて宿屋まで連れていき、そこで介抱します。

翌日には宿屋の主人にお金を渡して、その後の世話まで頼んでいる。

ここを読んでいて、私は一つ引っかかったんです。

このサマリア人、

倒れている人が「自分の隣人かどうか」なんて、一度も確認してないんですよね。

名前も聞いてない。 信仰も聞いてない。 自分と気が合うかなんて、もちろん分からない。

ただ、倒れていた。

そして自分は、そこを通った。

その二つだけだったんです。

物語を話し終えたイエスさんは、律法の専門家にこう尋ねます。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

ルカの福音書10章36節 新改訳2017

……あれ?🤔

イエスさん、

「あなたの隣人はこの人です」

って答えてない。

質問をひっくり返してるんです。

「誰が私の隣人ですか?」

と聞かれたのに、

「誰がその人の隣人になりましたか?」

と返してる。

ここでなんか、私の中で「隣人」という言葉の見え方が変わりました。

隣人って、誰かにつける名札みたいな言葉だと思ってたんです。

この人は隣人。 この人は違う。

でも、このたとえの中ではちょっと違う。

隣人になる。

なんだか、名詞じゃなくて動詞みたいなんですよね😳

律法の専門家が「あわれみ深い行いをした人です」と答えると、イエスさんは言います。

「あなたも行って、同じようにしなさい。」

ルカの福音書10章37節 新改訳2017

ただ、ここで私はもう一つ大事なことも感じます。

隣人になることって、

「その人の人生を全部、私が背負います」

という意味じゃないんですよね😌

だってサマリア人自身が、最後は宿屋の主人に託しているんです。

自分にできることをして、必要なところでは別の人の力も借りる。

これ、すごく救いだなと思いました🌱

愛するか、見捨てるか。

全部背負うか、何もしないか。

その二択じゃなかった。

今の私たちなら、自分では解決できない問題に出会った時、専門家や制度につなぐことが、その人へ近づく一歩になることもあります。

愛って、自分一人で何でもできる人になることじゃないんですよね。

その人に必要な助けまで、一緒に橋を架ける。

そこまでなら、私にもできることがあるかもしれない😊

そう考えると、最初の「大丈夫?」に戻ってきます。

気になっている人がいる。

でも、余計なお世話かもしれない。

そんな時、相手の人生へずかずか入っていく必要はないけれど、状況に合うなら一言だけ声をかけることはできるかもしれません。

「大丈夫?」

それで「大丈夫だよ」なら、それでいい。

もし「実はちょっとしんどい」と返ってきたら、その時に一緒に次を考えればいい。

全部を解決する約束なんて、しなくていいんです。

ただ、反対側を通り過ぎない。

それだけで始まることもあるのかもしれません🌿

そしてね…。

ここまで書いていて、もう一つ思いました。

私たちはいつも「隣人になる側」とは限らないんですよね。

自分がしんどい日に誰かから、

「大丈夫?」

って届くこともある。

そんな時、反射的に

「大丈夫、大丈夫😂」

って閉じちゃうこと、ありません?

でももしかしたら、

「今日はちょっとしんどい」

って言えることも、その人を自分の隣人にしてあげることなのかもしれません。

助ける勇気だけじゃなくて、

助けてもらう勇気もいる。

隣人愛って、一方通行じゃなかったんですね😊

今日、誰が私の隣人なのか。

まだ全部は分かりません。

でも、

今日出会う誰かの隣人になることはできるかもしれない。

そして必要な日は、誰かに私の隣人になってもらってもいい。

なんか、昨日までより「隣人」という言葉が、少しあたたかく見えます🫶

イエスさん。

今日、助けを必要としている人に出会った時、見なかったことにせず、私にできることを教えてください。

私一人ではできないことなら、ちゃんと誰かの力を借りる知恵もください。

そして私自身がしんどい時には、強がって全部を閉じず、差し出された手を受け取れるようにしてください🙏

「誰が私の隣人ですか」と線を引く前に、

今日、誰かの隣人になれますように。

そして誰かに、私の隣人になってもらえますように😊🙏

今日も皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰

良い一日を☀️

参照:ルカの福音書10章36–37節
翻訳:新改訳2017

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