おはようございます☀ はらぺこ僧侶です。
「大丈夫?」
って送るの、意外と勇気いりません?😅
いつもより返事が遅いとか、なんとなく元気がなさそうとか。
気にはなる。
でも、
「いや、考えすぎかな」 「余計なお世話だったらどうしよう」
って、ちょっと迷うんですよね🤔
たった四文字なのに😂
困っている人が目の前で「助けてください!」って言ってくれたら、たぶん話はもう少し簡単なんです。
でも実際の生活って、そんなに分かりやすくない。
助けが必要なのかどうかも分からないし、どこまで踏み込んでいいのかも分からない。
なんなら、相手がちょっと苦手な人だったりもする😅
そう考えていたら、ルカの福音書10章に出てくる律法の専門家の質問が、前よりちょっと人間っぽく見えてきたんです📖
この人はイエスさんとのやり取りの中で、
神を愛すること。 そして、隣人を自分自身のように愛すること。
そこまではちゃんと答えられました。
ところがそのあと、彼は「自分の正しさを示そうとして」、
「では、私の隣人とはだれですか」
と聞くんです。
最初は私、この質問を普通に
「隣人って誰のことですか?」
という質問として読んでたんですけど…。
なんか、もう少し違うものも見えてくるんですよね🤔
「隣人を愛しなさい。それは分かりました」
でも、
「どこまでですか?」
って。
家族まで? 友達まで? 同じ民族なら? 気の合う人なら?
逆に言えば、
「どこから先なら、私は愛さなくても大丈夫ですか?」
という境界線を探す質問にも見えてくる。
あぁ…。
これ、私たちもやるなぁって思ったんです😅
「この人の問題に、私が関わる必要ある?」
って。
そこでイエスさんは、答えの代わりに一つの物語を話します。
ある人がエルサレムからエリコへ向かう途中、強盗に襲われました。
傷つけられて、半殺しにされて、道に置き去りにされてしまう。
そこへ祭司が来ます。
倒れている人を見ます。
でも、反対側を通り過ぎていく。
次にレビ人も来ますが、やっぱり通り過ぎていきます。
そして三人目に現れたのが、サマリア人でした。
当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い隔たりがありました。
だからこの話を聞いていた人たちにとって、「そこでサマリア人!?」という登場だったと思うんです😳
でも、その人は倒れている人を見ると、かわいそうに思った。
そして、近づいた。
傷を手当てして、自分の家畜に乗せて宿屋まで連れていき、そこで介抱します。
翌日には宿屋の主人にお金を渡して、その後の世話まで頼んでいる。
ここを読んでいて、私は一つ引っかかったんです。
このサマリア人、
倒れている人が「自分の隣人かどうか」なんて、一度も確認してないんですよね。
名前も聞いてない。 信仰も聞いてない。 自分と気が合うかなんて、もちろん分からない。
ただ、倒れていた。
そして自分は、そこを通った。
その二つだけだったんです。
物語を話し終えたイエスさんは、律法の専門家にこう尋ねます。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
ルカの福音書10章36節 新改訳2017
……あれ?🤔
イエスさん、
「あなたの隣人はこの人です」
って答えてない。
質問をひっくり返してるんです。
「誰が私の隣人ですか?」
と聞かれたのに、
「誰がその人の隣人になりましたか?」
と返してる。
ここでなんか、私の中で「隣人」という言葉の見え方が変わりました。
隣人って、誰かにつける名札みたいな言葉だと思ってたんです。
この人は隣人。 この人は違う。
でも、このたとえの中ではちょっと違う。
隣人になる。
なんだか、名詞じゃなくて動詞みたいなんですよね😳
律法の専門家が「あわれみ深い行いをした人です」と答えると、イエスさんは言います。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」
ルカの福音書10章37節 新改訳2017
ただ、ここで私はもう一つ大事なことも感じます。
隣人になることって、
「その人の人生を全部、私が背負います」
という意味じゃないんですよね😌
だってサマリア人自身が、最後は宿屋の主人に託しているんです。
自分にできることをして、必要なところでは別の人の力も借りる。
これ、すごく救いだなと思いました🌱
愛するか、見捨てるか。
全部背負うか、何もしないか。
その二択じゃなかった。
今の私たちなら、自分では解決できない問題に出会った時、専門家や制度につなぐことが、その人へ近づく一歩になることもあります。
愛って、自分一人で何でもできる人になることじゃないんですよね。
その人に必要な助けまで、一緒に橋を架ける。
そこまでなら、私にもできることがあるかもしれない😊
そう考えると、最初の「大丈夫?」に戻ってきます。
気になっている人がいる。
でも、余計なお世話かもしれない。
そんな時、相手の人生へずかずか入っていく必要はないけれど、状況に合うなら一言だけ声をかけることはできるかもしれません。
「大丈夫?」
それで「大丈夫だよ」なら、それでいい。
もし「実はちょっとしんどい」と返ってきたら、その時に一緒に次を考えればいい。
全部を解決する約束なんて、しなくていいんです。
ただ、反対側を通り過ぎない。
それだけで始まることもあるのかもしれません🌿
そしてね…。
ここまで書いていて、もう一つ思いました。
私たちはいつも「隣人になる側」とは限らないんですよね。
自分がしんどい日に誰かから、
「大丈夫?」
って届くこともある。
そんな時、反射的に
「大丈夫、大丈夫😂」
って閉じちゃうこと、ありません?
でももしかしたら、
「今日はちょっとしんどい」
って言えることも、その人を自分の隣人にしてあげることなのかもしれません。
助ける勇気だけじゃなくて、
助けてもらう勇気もいる。
隣人愛って、一方通行じゃなかったんですね😊
今日、誰が私の隣人なのか。
まだ全部は分かりません。
でも、
今日出会う誰かの隣人になることはできるかもしれない。
そして必要な日は、誰かに私の隣人になってもらってもいい。
なんか、昨日までより「隣人」という言葉が、少しあたたかく見えます🫶
イエスさん。
今日、助けを必要としている人に出会った時、見なかったことにせず、私にできることを教えてください。
私一人ではできないことなら、ちゃんと誰かの力を借りる知恵もください。
そして私自身がしんどい時には、強がって全部を閉じず、差し出された手を受け取れるようにしてください🙏
「誰が私の隣人ですか」と線を引く前に、
今日、誰かの隣人になれますように。
そして誰かに、私の隣人になってもらえますように😊🙏
今日も皆様に、主の祝福と平安がありますように🥰
良い一日を☀️
参照:ルカの福音書10章36–37節
翻訳:新改訳2017